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ご存知ですか? 今日は洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日です

 今日は洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日です。洗礼者ヨハネについては、8月29日にその殉教(すなわち天国への凱旋)を祝いますが、イエス・キリストの先駆者としての特別な使命を神から受けることになるこのヨハネの場合、その誕生をも祝います。

 ヨハネの誕生の次第は、ルカ福音書1・57─80に記されています。当日の福音では、いわゆる「ザカリアの賛歌」を除いた部分(1・57─66、80)が朗読されます。

 ここでは、まず「喜び」が強調されます。それは、単なる命の誕生の喜びではなく、エリサベトに対する主の慈しみのわざが呼び起こす喜びです。

 ルカ福音書は、その冒頭でザカリアとエリサベト夫婦が「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と記しています。しかし、すぐに「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年を取っていた」と付け加えています(1・6─7)。子供がいないこと、神の民イスラエルの人々にとって、それは寂しさや、望みがかなえられない苦しみ以上のがものです。彼らにとって、子宝に恵まれることは、創造のときの祝福「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1・28)の実現であした。この祝福はノアに対する祝福でも繰り返されています(同9・1)。また、それはアブラハムを通してイスラエルの民になされた祝福と約束でもありました。「わたしはあなたを大いなる国民にする」(同12・2)。その反対に、子供のいないことがどのように受け止められていたか、想像することは難しくありません。イスラエルに対する神からの祝福に十分にあずかってはいないしるしと考えられていたのでしょう。

 一方で、神の前での正しさが強調されながら、彼らは神の祝福を受けられないでいる。不当とも思えるこの状況に、神が介入してくださいます。こうしてエリサベトは身ごもるのです。エリサベトの喜び、それはまさに、子供を産むことによって神の祝福へと入る喜びだったのです。

 ヨハネは、このような神の特別なはたらきによって生まれます。その意味でヨハネは、単に神の祝福を担う者としてだけでなく、正しい人に対する神の注意深いまなざしを体現する者として(「主がエリサベトを大いに慈しまれた」ルカ1・58)、また人間的には不可能に思えることを可能にする神の偉大な力を具現する者として生まれてきます。

 しかしその一方で、ルカ福音書の構成では、このヨハネの誕生の喜びはまた別の意味を帯びてきます。ルカ福音書の1〜2章では、ヨハネに関する記述がイエスに対する記述との並行関係の中で描かれています。

 ヨハネの誕生の描写では、近所の人々や親類が喜ぶために集まってきます(58節)。人々は皆、起きた出来事を心に留めます(66節)。しかし、これに並行して記されているイエスの誕生の描写では、イエスは両親の住民登録の旅の途上で生まれます(2・1─21)。このため、喜びを分かち合うべき親類や近所の人々は駆けつけることができません。天使の声にしたがって、羊飼いたちだけが幼子イエスのもとに行きます。羊飼いたちは、見たこと、聞いたことを人々に知らせますが、人々は皆不思議に思うだけです。これらの出来事を心に納めたのはマリアだけでした。

 私たちは、イエスこそがメシアであると知っており、その視点でこの箇所を読むため、あまり違和感を持たないかもしれません。しかし、ごく当たり前にこの二人の誕生の場面を読めば、多くの人々の喜びの中で生まれてきたヨハネこそ、待ち望まれていたメシアだと感じるにちがいありません。逆に、イエスの生まれ方がメシアとしてふさわしいとは、とても思えないのです。このように、ヨハネの誕生のときの喜びを、イエスの誕生の場面と比べて読むと、私たちはそこに逆説的な意味を読み取ることができます。ヨハネの誕生よりもずっと大きな喜びであるはずのイエスの誕生──「民全体に与えられる大きな喜び」(2・8)──。にもかかわらず、そのことに気づき、喜びをともにしたのは、天使たちとごくわずかの人々にすぎなかったからです。

 神は、私たち人間の思いを超えてはたらかれます。しかし、私たちはしばしば、この神のはたらきを神のはたらきとして認めることができません。神は、時として、私たちが通常、当たり前と考えていることに反してはたらかれるからです。私たちは、いわゆる「常識」や「私たちの理解」の中に神をおしとどめてしまおうとする──おそらくほとんどの場合、無意識の──傾きを持っています。この枠からはみ出して神がはたらかれることを、好まないのです。

 イエスが示された神、それはこのような神でした。旅の途中、貧しさの中で、ほとんどの人に知られることなく、名もない集落ナザレの出身者として生まれます。イスラエルの律法の中で最も重要なおきての一つ、安息日の規定をたびたび破ります。罪人や徴税人と一緒に食事をします。そして、最後には犯罪人として十字架刑に処せられ、死んでいきます。そして、これらすべてが神のなさり方を映し出すものだと言うのです。このため、当時の指導者層(祭司長、長老たち、ファリサイ派の人、律法学者など)はそれを認めることができませんでした。

 エリサベトに子供が生まれることが告げられたときのザカリアも、常識を超えてはたらかれる神をすぐには受け入れることができませんでした。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(1・18)。この年で子供が生まれることなどあろうはずがない、だから天使が告げていることも真実のはずがない……。自分のレベル、常識の中に神をおしとどめてしまおうとする人の典型的な反応です。しかし、ザカリアはこのときに命じられたこと、「ヨハネと名付けなさい」(1・13)という言葉を、ヨハネの誕生のときに実行に移すことによって、その信仰を示します。

 ヨハネの誕生のときにも、神を常識の枠に閉じ込めてしまおうとする傾きが現れます。人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとします(1・59)。すると、エリサベトは「名はヨハネとしなければなりません」と答えます(1・60)。しかし、人々は納得しません。「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言って、今度はザカリアに尋ねるのです(1・61以降)。

 パレスチナでは、名前は単なる呼称ではなく、その人の生き方や存在意義、使命を表すものでした。だから、神から特別な使命を受けた人は名前を変えるという例が聖書に見られます。イスラエルの人にとっては、十二部族のうちの一部族に属する者として、神との契約にあずかり、祝福を受けることは非常に重要なことでしたから、その部族を特徴づける名前を受け継ぐことがよく行なわれていました。

 父親の名をとってザカリアと名付けようとしたこと、ヨハネという名が親類の中にはいないという理由でこれを拒絶しようとしたことは、このような理由によります。これは、神の民としてとどまることを目的としているわけですから、単なる生活上の慣例ではなく、信仰にも関連することでした。「名前は重要だ。ところが、このエリサベトという女性は、突拍子もない名前を言う。そんな名前を受け入れられるはずがない。ザカリアに聞いてみよう。彼なら、事情をよくわかっているだろうから……」。もしかすると、人々はこのように考えたのかもしれません。いずれにせよ、彼らも「常識」や「慣例」──たとえ、それが信仰上のものであっても──に縛られ、それを超えてはたらかれる神を受け入れることができなかったのです。人々がヨハネという名前を受け入れるのは、ザカリアも同じ名前を指し示し、その瞬間に彼の口が開いたからでした。

 このような形で、ヨハネに名前が与えられたということは、とても重要なことです。名前がその人そのものやその人の使命を表すとすれば、ヨハネは、神が人間の思いや伝統的考え方を超えてはたらかれること、このような神のありのままの姿を受け入れることこそが人間の救いであることを示すという務めを負っているからです。この意味でも、ヨハネはイエスの先駆者と言えるのです。

 神のなさり方を理解すること、自分の考え方に神を押し込めるのではなく自分をこそ神に開いていくこと、すなわち神を全面的に受け入れること。それは決して容易なことではありません。だからこそ、この祭日にあたって、洗礼者ヨハネの誕生の場面を黙想しながら、またそれをイエスの誕生の場面と比較しながら、私たちの神理解や日常生活における判断がどのようなものになっているか具体的に見つめたいと思います。

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澤田豊成神父

聖パウロ修道会司祭。1965年、東京都目黒区生まれ。1996年、司祭叙階。教皇庁立グレゴリアン大学神学科修士課程で聖書神学を専攻、神学修士号取得。現在は編集をとおしての宣教に従事。東京カトリック神学院、聖アントニオ神学院講師。

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