いずれも最新の研究成果を踏まえたものでした。しかし、ここで考えさせられました。これまでずっと読み継がれてきた本文とは全く違ったものを、これこそが元来の表記ですと差しだされた場合、どう対処すべきなのでしょうか。丁度、そのころ『ダビンチ・コード』という小説が話題になり、ヒリッポによる福音書とかマグダラのマリアの福音書とかが紹介され、ユダの福音書の翻訳が刊行されたときでもありました。それらが果たして聖書なのか話題になりました。これらの書はグノーシス派の聖書ですが、いわゆる正統教会では聖書とは認めなかったものです。それにはそれなりの理由もありました。今のわたしにとってそれらの書は興味深い文献ではありますが、聖書ではありません。
では先ほどの問題はどうなのでしょう。一人の聖書研究者を見解がこれまで読み継がれてきた聖書本文に取って代わりうるのでしょうか。『聖書は誰のものか』というペリカンの本がありましたが、聖書は聖書学者のものなのでしょうか、それとも教会のものなのでしょうか。教会で読み継がれてきたからこそ聖書なのでないでしょうか。新しい発見により解釈の可能性が広がることは喜ばしいことです。歓迎しなければならないでしょう。しかし、聖書こそが教会の、ということはわたしたちの信仰を育んできたものであること、またその信仰は使徒たちの時代から綿々と受け継がれてきたものであり、次の世代に受け渡すものであることも忘れてはならないでしょう。『啓示憲章』の次の言葉はそれを言っているのではないでしょうか。
「カトリックの聖書学者および神学者たちは積極的に協力し合って、教導職の監督の下に、適切な方法をもって聖書を研究発表し、こうしてできる限り多くの神のことばの奉仕者が、聖書の栄養を効果的に神の民に与え、人々の精神を照らし、意志を強め、心を神への愛に燃え立たせることができるようにしなければならない。公会議は聖書研究に携わる教会の子らが力強く着手した仕事を、常に気力を新たにし、教会の精神に従ってあくまで続行するよう奨励する」(23)。