1 セミナリオ
*ジュリアンは1567年ごろ、西海市の中浦に生まれます。2歳の時に父が亡くなり、母の祈りによって支えられ、育てられます。母はジュリアンがセミナリオへ行くよりも立派な侍になってほしいと望んでいました。しかし、母の望みとは異なって、彼は12歳の時、司祭を目指して有馬のセミナリオへ第一期生として入学します。
2 少年使節
*彼はとても病弱で、成績もけっして優秀な方ではありませんでしたが、四人の天正遣欧使節の一人に選ばれます。長い旅の後、ローマに到着し、第一目的であるローマに着いたあと、三日熱にかかってしまいました。謁見の日も熱は引きません。しかし、どうしてもあきらめきれず、馬に乗せてもらいますが、フラフラして落馬。仕方なく欠席します。少年四人で教皇に謁見したかったのでしょうが、結局三人だけになってしまいます。
*当時83歳だった教皇グレゴリオ13世は、ジュリアンのことをかわいそうに思い、一週間後、病気が快復したジュリアンと三人の少年たちを再度謁見に招きます。教皇はジュリアンを抱擁し、ジュリアンにとってはこの上ない大きな喜びとなりました。それから一週間後、教皇が亡くなります。教皇の葬儀、教皇選出のコンクラーベ、新しいシスト5世教皇の誕生、その戴冠式。まさに彼は時の人となりました。
3 帰国して司祭叙階
*1591年に帰国し、豊臣秀吉から聚楽第に招かれ、「ぜひともわしに仕えないか」と言われます。当時の権力者にそういわれたのですから、とても名誉なことですが、四人ともそれを断ります。その後、ジュリアンは天草でイエズス会に入会します。彼は一生懸命勉強しますが、二回ほどラテン語の試験が不合格となりました。そんな中、1601年にセミナリオの同級生三人が長崎で司祭に叙階されます。他の仲間たちが叙階されていく中、ジュリアンは落伍者のような心境でコレジオ生として過ごしたことでしょう。有馬、京都、博多などで教会の手伝いを命じられます。他の仲間から遅れること7年。1608年にやっと長崎で司祭に叙階されました。
4 宣教活動
*司祭になってからは寝る暇もなかったと言います。迫害下の教会ですから、人の目をしのびながら走り回る。司祭が足りないし、昼間は潜伏し、夜の間に司牧する。まさに司牧者のモデルです。彼の活動範囲は、天草、八代、柳川、小倉など。さらに彼は転んでしまった司祭たちも訪問しています。例えば千々石ミゲルのところを訪問しています。ミゲルが何をどう言ったかわかりませんが、小説にもなっています。
*彼の優れたところは、平凡でも忠実に生きたことです。成績の面では優れず、むしろ試験では落第しましたが、それでも自分を与えつくす人でした。「自分は選ばれてローマまで少年使節として行った」などと、自分の名誉を誇張するようなことはありませんでした。
*今の時代は、人に目立つとか、文才があるとか、説教が上手だとか、黙想指導をしてよい話をするとか…。どちらかというと、能力のある司祭がもてはやされたりしますが、ジュリアンの場合はまったく逆のケースです。人柄もありますが、徹底的に、そして命がけで奉仕をしました。
*この当時、「司祭になりたい」というのは、人から尊敬されるとか、名誉というより、むしろ、世間からは怪しい地下教団の指導者のように思われていました。毎日、命がけで走り回ります。キリシタン時代、自分がずっと隠れていて、信者が来るのを待っているような姿勢ではありません。命の危険を犯してでも家庭を訪問する。そういうい状況を知り、覚悟のうえで司祭を目指し、司祭として働いていきました。
5 殉教
*キリシタン時代は司祭がだんだん少なくなっていきます。司祭の存在は、ゆるしの秘跡、聖体の秘跡のためです。そのために命がけで、司祭としての任務を果たしていく。彼の気概が感じられます。
*1632年、小倉で捕らえられ、長崎の牢屋に入れられ、棄教を迫られます。その責め苦は約10か月続きました。1633年10月18日、西坂の刑場に連行され、10月21日、「この大きな苦しみを神の愛のため」との言葉を残して、神のみもとに召されていきました。64歳。