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カトリック入門

「カトリック入門」 第72回 西坂の殉教者【動画で学ぶ】

<序>
*1583年、社会福祉的なミゼリコルディア(慈悲)の組が長崎で組織され、その本部が興善町(こうぜんまち)に置かれます。この組は、社会から見捨てられた病人に薬を持っていったり、病気を癒やしたり、彼らのために祈ったり、亡くなった時には遺体の埋葬を手伝ったりしました。特に長崎は貿易港ということもあり、外国から薬や漢方薬などを手に入れては、病に苦しむ人たちの治療にあたりました。その当時、刀傷を負った人が多く、放置すると化膿(かのう)してしまいました。その中でも、鉄砲の弾(たま)は鉛製で非常に軟らかく、体内に残ると死の危険さえありました。日本では弾を取り出す手術は施されておらず、彼らは外国の宣教師たちから摘出方法を教わっていました。こうした治療により、数多くの人の命が助かります。しかも兄弟愛、慈悲の心、無償で治療にあたることもありました。

<ミゼリコルディアの組>
*この組が発展していく前に、各地に大きな教会がありました。ところが1614年に禁教令に伴い、ほとんどの教会が破壊されていきます。そうした迫害の中で、この組だけは1620年代まで残ります。幕府はこの組の人たちを殺せば、病人や困った人たちを世話する人がいなくなること、戦争や病気で亡くなった人を埋葬してくれる人がいなくなることを恐れて、この組を残していきました。やがて幕府は、この組の人たちを残しておけば、いつまでもキリシタンたちがなくならないことに気づき、組織の壊滅を図っていきました。

<ミカエル薬屋>
*この組の会長を務めていたのが、ミカエル薬屋です。彼は長崎の興善町の住民ですが、出身地はわかりません。少なくとも1618年からミゼリコルディアの組の会長を務めていました。治療を施す薬、霊的な癒しの意味をも込めて彼は「薬屋」と呼ばれたのでしょう。敵意に満ちた社会の中で、追放、投獄、拷問を受けますが、ミカエルはじっと耐えて善業を行っていました。この慈悲の行為は迫害者に対するミカエルの答えであり、ミカエルに対するイエスの答えでもありました。「わたしは飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」(マタイ25・35~36)のことばを誠心誠意実行していました。彼は1633年7月28日、西坂で殉教しました。罪状書には、「この者は施しを集め、その金で殉教者の未亡人や孤児および宣教師を助けていた」と記され、殉教したのは、長崎にミゼリコルディアの組が創設されてからちょうど50年が経過した時でした。

<ニコラオ福永ケイアン>
*ミゼリコルディアの組とゆかりの深いもう一人の殉教者はニコラオ福永ケイアン修道士です。彼は近江永原に生まれ、安土のセミナリオで学び、1588年にイエズス会に入会し、天草のコレジオで勉強したあと、修道士として宣教に打ち込みます。1614年まで博多の教会に留まり、そこからマカオに追放されますが、1619年に密かに日本に戻り、主に大村領で活動します。イエズス会の報告書には「日本の学問をよく修めている。日本語で巧みに説教する人」と記されています。今で言えば、カテキスタとして教会に深く関わる修道士の姿です。
*仲間たちは彼を司祭に推薦しますが、日本に司教がいないこともあり、その道は閉ざされてしまいます。しかし、彼は修道士として堂々と説教し、信徒の共同体を導いていきます。
*1633年7月31日のイグナチオのお祝いの時、西坂で穴吊りの刑で殉教します。殉教にあたり、役人たちが彼を呼び、「何か後悔することはないか」と尋ねると、彼はユーモアを込めながら、「一つあります。それは将軍様をはじめ、すべての日本人をキリスト信者に導くことができなかったこと」と答えています。

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