<序>
*1613年10月7日、有馬で8人の殉教を契機に、島原半島の教会では、血による信仰の時代に入ります。有馬の殉教後、領主有馬直純は延岡へ移動させられ、その時、キリシタン武士の多くは主君に従わず、身分を捨てて有馬に残ります。信仰の道を選びます。
<島原の殉教>
*その三年後、有馬の領主となったのが、松倉重政でした。松倉はそれまでの有馬ではなく、島原に城を構えます。延べ100万人が築城のために徴用され、過酷な税金と重労働、司祭の追放とキリシタン弾圧への強化、こうした機運が島原の乱へと発展していきます。
*当初、松倉は築城と人々の人気を得るため、キリシタンに対して黙認していました。しかし、1627年1月、江戸から帰った松倉の人格は変わっていました。幕府はキリシタンを黙認する松倉を厳しく責めたのです。
*こうして島原近郊にいた主だった信者37人が捕らえられ、城内に投獄されました。2月21日の早朝、そのうちの16人に死刑の命が下されます。
島原地区の世話役パウロ内堀作右衛門の三人の息子、バルタザル、アントニオ(18歳)、イグナチオ(5歳)もその中にいました。16人はまず城の中庭で両手の指の真ん中三本を切り落とすという、拷問を受けます。最初に呼び出されたのが次男のアントニオ、次に長男のバルタザル、一番最後が5歳のイグナチオでした。
*その後、16人は裸にされ、二艘の小舟に乗せられると、有明海に連れ出されます。松倉は息子たちの死を見届けさせるために、作右衛門を別の小舟に乗せています。二月ともなれば、有明にも雪が舞います。裸で、手足を後ろ手に縛られ、沈めては引き上げる拷問を繰り返したあと、最後は石をつけて沈める。「お父さん、こんな大きな恵みを神に感謝しましょう」。これは次男アントニオの最期の言葉です。バルタザル、イグナチオもそのあとに続きました。わが子に信仰を伝えた父と、その父の信仰を励まし、感謝を口にする子の姿は、親子の在り方を問いかけてくれます。
<雲仙の殉教者>
*子供たちの殉教から一週間後、額にはキリシタンの焼印が押され、「この輩(やから)はキリシタンゆえに罰せられる。宿を与えてはならぬ」と書かれた着物を着せられた内堀作右衛門ら16人が雲仙岳で殉教します。
*5月17日、牢内に残っていたヨアキム峰など10人も雲仙岳に向かいます。組頭や庄屋をしていた彼らは、残された親指と小指に筆を持ち、命じられるままに財産目録を書き上げ、出発しました。島原から雲仙岳への道は、十字架に向かうキリストの道と重なります。雲仙岳の殉教は役人以外に誰も立ち会いませんでした。その殉教者のほとんどが、島原半島内の教会の世話役たちでした。彼らは選ばれた時から、最期まで自分を捨て、仲間のために徹底的に仕えた人たちでした。聖体の組に属する人たちも多く、「いとも尊き聖体は、賛美されますように」と、最期のことばをこの祈りで表しています。