神のみ摂理は王子教会に、「忠雄さん」という少し歳のいった二人目の青年を送ってくださった。彼は私たちの食事を作ってくれる、カツさんの息子「啓ちゃん」と一緒に、生活することになった。
この新しく入った青年の忠雄さん(彼は残念ながら第二次世界大戦で戦死し、啓ちゃんの方は幸いにも無事生還した)は、いろいろな教会活動の発展、特に「ボーイ・スカウト」の発足に関して極めて有益かつ適切な人物であった。
この「ボーイ・スカウト」という新しい活動は、もちろんパウロ神父の賢明な働きによるものであったが、しかしその活動は、忠雄さんと啓ちゃんという二人の優れた能力と協力とに大いに助けられていた。特に、意志の強さと恵まれた体を生かした抜群の運動神経、鋭い知性と敬虔な従順さ、そしてパウロ神父に対する深い敬愛の念を持っていた忠雄さんは、神父の有力な助け手になった。こうして忠雄さんは王子教会ボーイ・スカウトの初代隊長、啓ちゃんは副隊長になった。
王子教会のボーイ・スカウトは、地域の若者たち五、六人からスタートした。それから少しずつ規模を広げていって、東京における「ボーイ・スカウト」の中央組織に所属する、正規の一分団に成長していった。
その発展ぶりは、団員数、経験、熟練度において実に驚くべきものがあり、王子教会ボーイ・スカウトは全東京にその名を知られるようになった。このため入隊を希望する若者が増え、組織を幾つかの分団に分けなければならなくなった。
私は今でも当時のさまざまな出来事、特に教会の庭で行われた行事や集会のこと、また山登りや森の中で数日間を過ごした野外訓練などを、大いなる喜びのうちに思い出す。
王子の聖パウロ修道会の小教区は、第二次世界大戦後、他の修道会の宣教師たちに運営が委ねられ、彼らは私たちが始めたさまざまな活動を赤羽駅の近くに移した。そして王子地区のカトリック信徒は現在、赤羽教会で日曜日のミサにあずかっている。私たちが知っている人たちのうちで、今も存命の人たちが何人かいるが、当然のことながら王子地区の信徒の多くは、みな私たちの最初の信徒の子どもたちや孫たちである。
一九七七年の春。かつて王子教会の助任司祭であった私はすでに歳を取っていたが、イタリアに帰って二十年以上もたって、日本の聖パウロ修道会を訪ねるという恵みを得た。
私の来日の知らせを聞いた王子教会時代の高齢の信徒たちは、赤羽教会での親睦会に私を招待してくれた。歳老いた私は喜んでこの招待を受けた。それは本当に感動的な集まりだった。あのころ、まだ二十代の若い青年だった人々はすでに父親や母親になっていて、そのうちの何人かは祖父や祖母になっていた。この出会いは、彼らに洗礼を授けた老いた神父にとっても、そしてはるか昔の求道者たちにとっても、深い感動を与えずにはおかなかった。
かつての助任司祭を歓迎するための親睦会の最高潮は、現在の赤羽教会「ボーイ・スカウト」の全隊員が、隊の始まりとその成長に立ち会った一人の聖パウロ修道会会員と会うために集まった時のことであった。教会ボーイ・スカウトの後継者たちが、隊の誕生に伴う数々の秘話や歴史、エピソードを当事者である司祭の肉声から聞こうとして、今、彼の目の前にいるのである。しかしそれにも増して私を感動させたのは、五十歳過ぎの一人の隊長が私の前に進み出て、こう言った時であった。
「神父様、私を覚えていますか? 小島です。あなたが三十年前に私をボーイ・スカウトに入れてくださった、あの時の小島です!」。
私たち二人の目からは、今にも涙があふれ出そうだった。彼は現役の自衛隊員であり、私はすでに七十歳を越えた「おじいさん神父」であった。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年