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そよかぜカレンダー

ご存知ですか? 3月25日は神のお告げの祭日です

 「神のお告げ」の祭日です。多くの人は、この祭日をマリアの祭日と考えていますが、これは、まず第一に、イエス・キリストの祭日です。実際に、『ミサ典礼書』では、この祭日は「聖人の記念」の項目の中ではなく、「年間の主の祝祭日」の中に入れられています。

つまり、この日は、神の子イエス・キリストがマリアの胎内に宿ったことを祝う日なのです。もちろん、同時に信仰によるマリアの受諾も記念します。

 「神のお告げ」の祭日が、3月25日に祝われるのは、主の降誕の日(12月25日)から逆算して、9か月前に受胎があったとする単純な理由によります。歴史的に、イエス・キリストが生まれた正確な日付けは明らかではありません。主の降誕が、なぜ12月25日に祝われるようになったのか、ということについても、諸説があり、明らかではありません。私たちにとって大切なのは、「いつ」という歴史的問題ではなく、「それが何を意味するのか」という信仰の問題なのです。

 さて、マリアへの神のお告げの出来事は、救いのわざがどのように成し遂げられていくかということのモデル・ケースとも言うべきものです。

 まず第一に、救いのわざは、全面的に神の行為です。人間の行為ではありません。マリアに語られていることも、すべて神が何をしてくださるかということです。それは、マリアが考えたことでも、マリアが自分で望んだことでもありません。神がマリアを選び、マリアを恵みで満たします(28節、29節)。主がマリアと共にいてくださり(28節)、また聖霊がマリアに降り、いと高き方の力がマリアを包みます(35節)。「神にできないことは何一つない」(37節)との宣言も、それが神のわざであることを表しています。

 確かに、それは人間の思いをはるかに超えるものです。マリアは、理解できずに、「どうしてそのようなことがありえましょうか」と叫んでいます(34節)。

 マリアにしても、決して神の子を生むのにふさわしい者ではありませんでした。神の子の母となるのにふさわしい者など誰もいない、ということではなく、マリアについて何も語られていないということなのです。私たちは、伝承を通して、マリアについて多くのことを知っています。しかし、ルカ福音書は、マリアの家系、その信仰生活などについてまったく語ろうとしないのです。これは、偶然とは思えません。

 ルカ福音書1〜2章は、イエスと洗礼者ヨハネを対比しながら記しています。二人の両親も対比されているわけです。ヨハネの両親については、ザカリアが祭司であること、エリサベトもアロン家という祭司の家系に属することが明記されます。その生活についても、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすっべて守り、非のうちどころがなかった」と記されています(1章5〜6節)。しかも、ザカリアへのお告げの舞台となるのは、エルサレムの神殿です。一方、ヨセフとマリアについては、ヨセフがダビデ家の者であることのみ語られ、マリアについては何も記されないのです。しかも、お告げの舞台は、聖書に一度も出てくることのなかった、「ナザレというガリラヤの町」でした。

 マリアがイエスの母として選ばれたのは、マリアがふさわしかったからではないのです。何も誇ることのない小さな者マリアを、神が選び、恵みと霊で満たし、マリアを通して、偉大なわざを行なわれたのです。

 それにもかかわらず、神は一方的に事を進めようとはしていません。マリアが信仰により、自由にそれを受け入れることを待っておられるのです。これは、とても不思議なことです。人間は、神の思いを完全に理解することはできません。その後の福音書のエピソードは、マリアがいかに神の計画を理解していないかを描き出しています。理解できないのですから、受け入れるのも大変です。しかし、それでも神は人間の心からの同意なしに、救いのわざをご自分だけで進めようとはなさらないのです。

 すべては神のわざであり、それにもかかわらず、神は人間の同意と協力を待っておられる。これは、神の救いのわざすべてに共通する枠組みです。神はわたしたちの歴史の中に入って来られます。しかし、私たちの同意なしには、この救いを実現しようとなさらないのです。

 マリアの同意「お言葉どおり、この身になりますように」は、神の子の誕生へと道を開きました。もちろん、神は他の方法をとることもできたでしょう。しかし、神はマリアの同意を通して、受肉の神秘を実現させることを望まれたのです。

 今も、神は同じような方法を用いておられます。マリアの同意がキリストによる救いの実現へと道を開いたのなら、今も私たちの同意が救いのわざの実現へと道を開くのです。逆に言えば、私たち一人ひとりが同意しなければ、救いのわざは実現しない(少なくとも妨げられている)のです。

 神の呼びかけに同意するのは、決してやさしいことではありません。とても自分では無理ではないだろうか。不安と恐れ、大変さといったことを前にとまどってしまいます。しかし、それはマリアの姿でもありました。マリアも天使の言葉に恐れおののき、とまどいながら、また自分が不十分であることを知っていながら、しかし神の力と導きに信頼して、同意したのです。

 今、日本の社会はあまりにも確かさや安全性を求め過ぎているのかもしれません。それが確認されなければ、踏み出せないのです。しかし、マリアの姿は、救いのわざにおいては、信仰をもって、それを大きく超えていく勇気が必要であることを指し示しているように思います。できるから行なう、安全だから、確実だから行なうのではなく、自分の力をはるかに超えていることを理解していながらも、神に信頼して、この偉大なわざを受け入れていく。そうして初めて救いのわざは実現していくのですから。

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澤田豊成神父

聖パウロ修道会司祭。1965年、東京都目黒区生まれ。1996年、司祭叙階。教皇庁立グレゴリアン大学神学科修士課程で聖書神学を専攻、神学修士号取得。現在は編集をとおしての宣教に従事。東京カトリック神学院、聖アントニオ神学院講師。

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