聖パトリック司教の記念日は3月17日。日本の教会の典礼暦では、日本の信徒発見の聖母の祝日と同じ日にあたります。
アイルランドの教会の保護者である聖パトリックは、390年ごろ、現在のイギリスで生まれました。この聖人の生涯については、多くの伝承物語が残されていますが、歴史的に検証可能な要素はそれほど多くありません。亡くなった場所や年も明確ではありません(おそらく461年?)。しかし、聖パトリックのものとされる著作をとおして、ある程度の略歴を知ることは可能です。
パトリックの生まれ育った町は、海に面していたようです。彼は、16歳のとき、アイルランドの海賊集団によって連れ去られ、奴隷として売られ、アイルランドで働かされます。この「事件」によって、パトリックは勉学を中断せざるをえず、そのため、後に司教になってから学力、特にラテン語の語学力の不十分さを絶えず批判されることになります。
パトリック自身の言葉によれば、奴隷の境遇に追いやられるまでは、彼はさほど熱心な信仰を持っていたわけではないようです。しかし、一日中、動物の世話をしながら、次第に神の愛に突き動かされるようになり、朝夕を問わず祈り、また熱心に働くようになりました。
ある夜、パトリックは幻を見、彼を祖国へ連れ帰ってくれる船が港に停泊していることを告げられます。彼は、すぐさま逃亡を試み、320キロにもわたる逃走の末、アイルランドの軍船に乗り、困難の末に祖国に戻ることができました。その後、宣教のため再びアイルランドに渡るまでの約20年間、パトリックがどこで勉強をし、司祭に叙階されたのかははっきりしていません。現在のイギリス、現在のフランス、ローマなどさまざまな説があります。いずれにせよ、パトリックは432年に司教としてアイルランドに向かいます。
もともとパトリックはアイルランドに行くことをまったく考えていなかったようです。不慮の出来事を経てようやく祖国に戻ってきたわけですし、ましてアイルランドはパトリックを誘拐し、奴隷とした人々の国でした。パトリック自身のわだかまり、家族の反対は当然のことだったでしょう。しかし、パトリックにアイルランドで生活した経験があることから、教会の中でパトリックを司教としてアイルランドに派遣しようとの動きが起きました。パトリックも、最終的には自分の召命を確信し、アイルランドへと旅立ちました。
パトリックがアイルランドに派遣された最初の宣教者だったわけではありません。また、この時期、パトリックだけがアイルランドで宣教活動をおこなっていたわけでもありません。パトリックが、当初、アイルランドのキリスト者の司牧のために派遣されたのか、異教徒への宣教のために派遣されたのかも明確ではありません。しかし、パトリック自身が記しているように、彼は「地の果てに至るまで」(使徒言行録1・8)宣教をしようと努めました。実際に、アイルランド北端は当時の「世界」の果てと考えられていた場所だったのです。
パトリックの宣教活動、アイルランド教会の司牧は、さまざまな困難の中で続けられました。現地の異教徒の敵意だけでなく、祖国の蔑視と批判にもさらされました。パトリックの祖国からは多くの援助も届きましたが、アイルランドの教会を未熟で異教的なものとして見下す姿勢も強かったのです。パトリックは、こうした批判からアイルランドの教会を守り続けました。
彼自身の著作から浮き彫りになるパトリックは、とても感受性豊かで、自分の能力の不十分さを自覚しているがために、人間関係や人々の批判に思いまどう人物です。超人的な意志の強さで苦難を乗り切る人物というよりは、むしろ降りかかる現実にとまどいながらも、神から与えられた使命とゆだねられた人々への思いのために踏みとどまる人の姿が、そこに見られます。しかし、だからこそ聖パトリックは今日を生きるわたしたちの模範となりうるのでしょう。
聖パトリックの記念日にあたる3月17日は、通常、四旬節の期間にあたります。典礼暦上、四旬節の週日は、義務の記念日に優先するため、聖パトリックの記念は「任意の記念」として、ミサの集会祈願のみで祝われ、聖書朗読は四旬節の週日のものが用いられます。そこで、今回の聖書の個所は定められた個所ではなく、自由に選ぶことにしました。奴隷としてひどい仕打ちを受けた人々をゆるし、彼らの救いのために身をささげたというパトリックの生き方に結びつけて、マタイ福音書18・21-35を読むことにします。
この個所は、イエスに対するペトロの問いから始まっています。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)。ここで、ペトロは一般的な罪のゆるしについて質問しているのではないということに、まず注目したいと思います。具体的に「わたしに対して罪を犯した」兄弟が問題なのです。ペトロの思いをくんで考えると、この部分は「この人がわたしに罪を犯したのですから、本来はゆるす必要性はなく、わたしに代償を払わなければならないはずですが、それでもお言葉ですから見逃してあげましょう。しかしまあ、七回も見逃してあげれば十分でしょう」と言えるでしょうか。ところが、イエスはペトロの思いもよらない答えをなさるのです。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)。イエスが言おうとしておられることは明確です。「本来はゆるす必要はない」とか、だから「七回もゆるせば十分だろう」とかいった考え方が、そもそも間違っているのだ、ということです。
このことを説明するために、イエスはたとえを語られます。主人から1万タラントンもの負債を帳消しにしてもらいながら、同じ家来である仲間に貸した100デナリオンのお金を要求し続け、返すことのできないこの仲間を牢に閉じ込めてしまった人の話です。結局、このことに心を痛めた仲間たちが主人に告げたために、この家来はせっかく帳消しにしてもらえたはずの借金を返すまで牢に入れられてしまいます。
「1万タラントン」と言っても、なかなかピンとこない額だと思います。これは、ちょっとした国の国家予算規模の額で、どう考えても一人の家来が借金できるような額ではありません。つまり、ありえない額の借金を帳消しにしてもらったということなのです。しかし、1万タラントンの借金を帳消しにしてもらっても、現実には1万タラントン豊かになったわけではありません。たしかに、帳簿上、マイナス1万タラントンがゼロになったわけですが、財布の中は元からゼロだったのがゼロのままで、手持ちの現金が増えたわけではありません。そうすると、この家来にとって、本来は自分に戻ってくるはずの100デナリオンをあきらめることはできなくなります。1万タラントンという法外な額と比べるから100デナリオンは些細な額になりますが、それ自体としては一家来にとって多額のお金です。100日間飲まず食わず働き続け、ようやく貯まるお金なのですから。
このたとえが言おうとしているのは、わたしたち同士の「権利」、「貸し借り」だけを問題にしていれば、たしかに100デナリオンを要求するのは「正当」なことに思えるけれども、神とのかかわりを考えれば、わたしが神の権利をないがしろにして、なお見逃してもらっている1万タラントンもの「借り」があるのに、ほかの人に貸したわずか100デナリオンを帳消しにしないのは「不当」ではないかということなのです。何を基準と考えるかによって、ゆるすことは「正当」な要求を放棄することではなくなります。ゆるすこと自体が「正当」なことになり、逆に、ゆるさないことは「不当」なことになるのです。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。
たとえを読めば自明に思えるこの理屈を、わたしたちはなかなか実生活に当てはめることができません。聖パトリックの生涯に当てはめてみましょう。パトリックにとって、アイルランド人は、あくまで自分に不当なことをした人々なのであって、彼らこそが自分に代償を払って当然である。どうして自分が彼らのために犠牲を払わなければならないのか……。正論に思えます。しかし、神を中心に置くとき、神がわたしたちにしてくださったことを基準とするとき、それはもはや正論ではなくなってしまうのです。神は、パトリックにこのように言われたのではないでしょうか。「あなたはわたしにひどいことをしたが、わたしはあなたをゆるした。あなたが代償を払うべきなのに、わたしは愛する独り子キリストを代償として支払った。だから、あなたもアイルランド人に同じようにするべきではないのか」。聖パトリックは、このことに気づいたのでしょう。だからこそ、わだかまりの中で、しかし自分を奴隷とした人々のためにいのちをささげたのでしょう。わたしたちにとって、決してたやすいことではありません。だからこそ、イエスの十字架を見つめ、聖パトリックの模範に倣いながら、それが「当たり前」と思えるような恵みを願い求めたいと思います。