今日の箇所は、ルカ1章の前半部分と、4章の中間部分が朗読される構成になっています。前半部分は、「わたしたちの間で成し遂げられた出来事を、最初から目撃し、言葉の奉仕者となった人々がわたしたちに伝えてくれたとおりに、書きつづろう」(ルカ1・1~2)と書かれているように、福音書の意図が記されています。その後、4章になってくると、「イエスは、霊の力に満ちてガリラヤにお帰りになった。その評判は周りの地方一帯に広まった」(ルカ4・14)とあるように、イエスの評判がガリラヤ中に満ち、最高潮に達していきます。これらの間には、洗礼者ヨハネやイエスの誕生が記され、また直前では荒れ野でイエスが誘惑を受ける内容になっています。このような出来事が記された後、ガリラヤでの宣教が開始され、イエスの評判は好調な滑り出しとなりました。
しかし、この後からはイエスの評判は徐々に低下していき、十字架上での犯罪人の一人がイエスに侮辱して、「お前はメシアではないか。自分たちとおれたちを救ってみろ」(ルカ23・39)と言われ、最低レベルに達していきます。そうした屈辱的な仕打ちを受けた中で、もう一人の犯罪人が「イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)と語る言葉や、十字架のもとにいる百人隊長が神を賛美しながら、「まことに、この方は正しい人だった」(ルカ23・47)と語る言葉は、最低のレベルから引き上げていきます。どんなに落ち目にあっても、また評判が悪くなったとしても、またいつか回復する希望を提供してくれる言葉ではないでしょうか。
「弱さがあっても、虐待されても、災難に遭っても、迫害や行き詰まりに出合っても、わたしはキリストのためならそれでよいと思っています。わたしは、弱っている時こそ、強いからです」(二コリ12・10)というパウロの言葉が思い起こされます。評判がよい時も、逆に低下した時も、イエスのように冷静に生きていく道を、今日のみことばから探してみたいものです。