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カトリック入門

「カトリック入門」 第62回 ペトロ岐部と187殉教者-有馬の殉教者-【動画で学ぶ】

序)有明海に流れる有馬川があります。小さな川ですが、河口はけっこう広く、遠くには島原の乱で有名な原城があります。1613年10月7日、この河口の中州で、3家族8名の信徒が、二万人の仲間の祈りに包まれながら殉教していきました。

1)有馬の教会の歴史
*有馬に教会が始まるのは1563年のことです。アルメイダ修道士、日本人のロレンツォ修道士、さらにコスメ・デ・トーレス神父が有馬で宣教し、その信仰は口之津、島原へと広がっていきました。
*1579年、イエズス会の巡察しヴァリニャーノ神父が来日し、日本文化への順応や適応を大切にしていく中で、有馬の教会が成長していきます。口之津の教会で最初の会議が開かれ、日本人司祭の養成の問題などがとりあつかわれ、一年後に有馬と安土にセミナリオが誕生し、その二年後には四人の神学生がヨーロッパへ派遣されます。その際、印刷の技術を学ぶために、一緒に派遣された三人の神学生は、帰路にインドのゴアから印刷機を持ち帰り、その機械によって日本の教会に適応した「ドチリナ・キリシタン」というカテキズム(要理書)が加津佐のコレジオで出版されます。熱心な教育によって育てられた有馬は、日本でもっとも成長した教会に発展していきます。
*有馬の教会も、有馬晴信がかかわった岡本大八事件で陰りが生じてきます。信徒であった岡本大八は駿府(静岡)で処刑され、有馬晴信も甲斐大和へ追放され、そこで生涯を閉じます。
*1612年6月9日、教会に不信をいだいた幕府は、全国に先駆けて有馬領内に禁教令を発令します。有馬晴信の後継者は息子の有馬直純。しかし、長崎奉行の長谷川佐兵衛と直純の後妻国姫(徳川家康の孫娘)の力がとても強く、直純は名ばかりでした。長谷川佐兵衛は有馬直純に対して、徳川家康に忠誠を尽くそうと思うのであれば、主だった信徒たちの信仰を捨てさせるように命じます。こうして有馬直純は8名の主だった家臣たちを呼びだして棄教を迫ります。そのうちの5人は口先では合意を取り付けますが、3名(アドリアノ高橋主水<もんど>、レオ林田助衛門、レオ武富勘右衛門)は殉教することを希望します。その父の信仰に従う決意をした家族、すなわちアドリアノ高橋主水の妻アンナ、レオ林田助衛門の妻マルタ、12歳のディエゴ、19歳のマグダレナ、レオ武富勘右衛門の息子のパウロ。合計8名が有馬の教会の代表者として、殉教を希望します。直純は事が大きくならないように早めに処刑をしようと思いますが、「聖母の組」の会員であった彼らは、その組の創立記念日うでもあった10月7日の「ロザリオの聖母の日」に殉教することを望みます。

2)殉教
*1613年10月7日、二万人の信者が早朝から手にローソクとロザリオを持ち、有馬川河口の両岸に陣取り、祈りを捧げます。二万人が唱えるロザリオの祈りは、天にとどろいたことでしょう。殉教者たちの背後には、それを支える仲間たちの熱心な祈りがありました。8名は火あぶりの刑で殉教していきました。

3)埋葬
*彼ら8名の遺体は、翌年の1614年、追放された宣教師たちによってマカオに運ばれ、1995年、マカオが中国に返還になった時、長崎(西坂)に戻ってきました。

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