序)今年は、聖フランシスコ・ザビエルが列聖されて400年になります。
フランシスコ・ザビエルは、1550年に平戸を訪れ、木村家の人々に洗礼を授け、平戸にキリスト教の種が蒔かれる。その後、平戸藩主・松浦家の重鎮で生月を支配していた籠手田(こてだ)氏と一部(いちぶ)氏が洗礼を受けます。生月に生まれたガスパル西は1558年、2歳の時に父とともに洗礼を受けます。西家は籠手田氏の家臣として働き、生月で総奉行を務めていました。籠手田が平戸の城下町に住んでいたこともあり、実質的には西家が生月を管理していました。
1)生月で総奉行をはく奪される
*成人したガスパル西玄可(げんか)は、ガスパル・トイという息子を持つ未亡人ウルスラ・トイと結婚し、4人の子ども(長男のヨハネ又市、司祭となった次男のトマス六左衛門、三男のミカエル加嘉左衛門、長女のマリア)を授かります。
*平戸を支配していた松浦隆信は、貿易のためにポルトガル船の入港を許し、キリシタンに対しては保護する姿勢でした。ところが1599年、松浦隆信が亡くなり、息子の松浦鎮信(しげのぶ)が後を継ぎます。彼は父隆信の葬儀を仏式で行うと決定し、家臣団に葬儀には仏教者として参列するように命じます。籠手田一族に対しても、信仰を捨てた証として葬儀への参列を要請します。籠手田氏と一部氏は信仰を選ぶか捨てるかの二者択一を迫られ、家臣約600名を連れて長崎へ亡命します。
*生月の総奉行であったガスパル西は、島に留まり、残った信徒たちの世話をする道を選びます。自分の主人が長崎に亡命したのを機に総奉行職をはく奪され、その後、井上右馬允(うまのじょう)<山田地区>とキリシタン嫌いの近藤喜三(きさん)<舘浦地区>が奉行に任命されます。近藤喜三の息子には、ガスパル西の娘マリアが嫁いでいました。マリアは再三にわたって、姑(しゅうと)から信仰を捨てるように迫られ、2~3年辛抱しますが、耐えられなくなり、やがて実家に帰ります。近藤喜三の姑は、マリアに戻ってくるように促しますが、マリアは「信仰を守りたいので戻りたくない」と伝えます。こうして近藤喜三はガスパル西一家の処分を考えますが、そのためには、平戸藩主の松浦鎮信(しげのぶ)の許可が必要でした。
*一家の処分にあたり、近藤喜三は平戸の空盛(くうじょう)上人と結託して、松浦鎮信に殿の命令でキリシタンを撲滅するように進言します。その上でガスパル西が主君の命令に背いて信仰を捨てないばかりか、島の人々に洗礼を授けたり、信徒を励ましたりしていることを松浦鎮信に報告すると、彼は非常に激怒し、ガスパル西を捕縛して、死刑に処するように命じます。
2)処刑
*処刑は、キリシタンに好意を持ち、親友だった井上右馬允に任されます。井上はガスパル西の家族を何とか救いたいと考えますが、ガスパル西は信仰のために喜んで命をささげることを望みます。処刑にあたり、ガスパル西はキリストと同じように、十字架につけられることを望みましたが、井上は日本の風習にないと拒否し、斬首刑を行います。また処刑場は、ガスパル西の望みに従い、1563年にトーレス神父によって大きな十字架が建てられた黒瀬の辻で行われます。処刑後、教会の典礼で葬儀がなされ、彼の遺体は近くにあった教会墓地に埋葬されました。
*また領主からウルスラ・西と長男のヨハネ又市にも処刑の命令が下り、翌日、黒瀬の辻近くで処刑され、同じ墓地に埋葬されました。
*有馬のセミナリオで勉強し、マニラでドミニコ会の司祭となった次男のトマス西神父は1634年、長崎で殉教しました。また広島にいた三男のミカエル西も同年、トマス西神父をかくまった咎(とが)で妻と子とともに処刑されました。
*迫害下にあって、ふるさとを捨てず、残された信徒たちの面倒をみていくガスパル西玄可。領民たちからも深い信頼があった彼は、生月の信徒のリーダー、キリシタンの家庭のモデルとしてすばらしい生き方、また信仰が家庭の中で、二代、三代へと受け継がれ、養われていく姿をよく示しています。
3)墓地
*ガスパル西たちの墓は、過酷な殉教の時代から潜伏の時代にあっても大切に守られ、墓の目印として松の木が植えられていました。その松で造られた十字架が、聖トマス西の列聖(1987年)の時に、教皇ヨハネ・パウロ二世に献上されました。