1月25日はパウロの回心を記念する日です。今回は、このパウロの回心について考えてみることにしましょう(パウロの回心の出来事は、使徒言行録の中で9章、22章、26章の3回にわたって述べられています)。
まずは、回心前のパウロがどのような状態にあったのか考えてみたいと思います。パウロはキリスト信者を徹底的に迫害していました。しかし、パウロ自身が回心前の自分について「(わたしは)熱心に神に仕えていました」(使徒22章3節)と断言していることからも分かるように、彼は神への熱心さのゆえにキリストの教会を迫害していたのです。パウロは神が唯一の方であるとの信仰を持っていましたから、イエスという人を神の子であると宣言することが神への冒とくであると考えたのでしょう。パウロは、教会を迫害することが神の望みにかなうことだと固く信じていたのです。実際には神の望みに反することであるのに、それを神の望みであると思い込んで熱心に行っていた、これがパウロの回心前の状態でした。このような状態になると、人間はそこからなかなか抜け出すことができなくなります。自分は正しいこと、すばらしいことをしていると信じて疑わないのですから、その信仰が熱心になればなるほど、逆に泥沼に入り込んでしまうのです。
自分ではどうしようもない状況、そこにキリストが現れます。パウロに会いに来てパウロに語りかけ、パウロの行っていることがいかに神の望みに反することであるかを気づかせてくださったのです。パウロの回心は、自分の力によるのではなく、まさにキリストが出会ってくださったという無償の恵みから生まれたのでした。
それにしても、この時のパウロの気持ちはどのようなものだったのでしょうか。これまで、神のためと思えばこそ必死になってがんばってきたのに、それがすべて誤りであった、神の望みに反することだったという事実を突きつけられたのです。大きな衝撃を受けたでしょうし、そう簡単にこの事実を受け止めることはできなかったでしょう。自分のこれまでの人生は何だったのかという虚無感にも襲われたことでしょう。使徒言行録はパウロの心の動きについては一切触れていませんが、「三日間、食べも飲みもしなかった」(9章9節)という表現が、パウロの心の衝撃の大きさと苦悶を物語っているように思えます。
しかも、キリストはパウロが何をすべきか直接には教えてくれません。アナニアという人を通してこれをパウロに知らせようとなさいます。アナニアは、パウロが縛り上げ連行しようとしていた人たちの一人です。当然これまでのわだかまりもあったことでしょう。しかし、パウロがこれまでの敵に心から頭を下げ、その教えを受けるようにとキリストは望まれるのです。さまざまな心の葛藤を乗り越え、キリストから遣わされた人アナニアを受け入れた時、パウロは聖霊の力に満たされ、熱心な福音宣教者となったのでした。
その一方で、パウロの回心はアナニアにも波紋を投げかけます。回心したパウロのもとに行くように、とのキリストの言葉を前にして、アナニアは大きな抵抗を感じます。アナニアはパウロに迫害されていた側の人間ですから無理もないことです。しかし、キリストの命令が告げられると、アナニアはこれに従い、しかも、パウロに対して「兄弟」と呼びかけるのです。敵としてのわだかまりや抵抗を乗り越えて、キリストにおける兄弟としてアナニアが心からパウロを受け入れたことを、この呼びかけは見事に表しています。
パウロの回心はさまざまなことを私たちに教えてくれます。信仰のため、教会のためと言いながらも、実際は神の望みではなく、自分の思い込みを実行している場合があるということ。そこから抜け出し、神に立ち返るためには、キリストとの出会いが必要であるということ。キリストの言葉は自分が抵抗を感じる人を通しても告げられるということ。自分の考えや人とのわだかまりに捕らわれずに、キリストの言葉を受け入れる謙虚さが必要であるということ。教会共同体としても、回心をした人を心から受け入れるよう招かれているということ……。
教会全体が、聖霊の力に満たされて、神の望みをしっかりと受け止め、これを実現していくことができますように。