序)イエズス会の創立者
16世紀、宗教改革の波が押し寄せてきた。そうした中で、教会の改革に努める。
生涯
1491年、スペイン北部のバスクに生まれた。ロヨラ家の13人兄弟の末っ子。
1521年の春、スペインとフランスの間に戦争が起こり、フランス軍はピレネーを越えてナバラに侵入してきた。イグナチオは30歳だった。パンプローナの城塞守備軍の士官だった。戦争に負け、イグナチオは右足を砲弾に砕かれ、守備軍は降伏した。フランス軍は彼を治療し、ロヨラ城まで送り届けた。二度の手術後、命はとりとめたが、片足が不自由となった。療養中、キリストに関する本を読み、すべてを捨ててキリストに従う決意をする。
心を清めるためにラバに乗り、モンセラートへ向かった。1522年3月24日、聖母のお告げの前日、聖母の祭壇で一晩中祈った。
3月25日の朝、ミサにあずかった後、隣の町のマンレサへ行き、聖ルチア病院に宿泊。毎日、人里離れた洞窟へ行き、一日7時間の黙想をし、約11か月、孤独のうちに祈りと黙想に励んだ。やがて自分の完徳と「人々を霊的に助けること」が自分の使命だと悟る。その時の体験が「霊操」(心霊修業)となっている。
その後、聖地巡礼を思い立ち、1523年9月4日、エルサレムに到着し、約1か月とどまり、イグナチオは人々を教化するには、学問が必要だと確信した。
1524年、スペインに戻り、司祭を志してバルセロナのラテン語学校に入学し、初歩から勉強を始めた。33歳になっていたが、中学生と机を並べての勉強であった。1527年、哲学と神学を学ぶため、サラマンカ大学に入学したが、異端の嫌疑をかけられ、1528年2月、パリの大学に入学した。パリ大学には1535年春までの6年半、在学した。この間、学友から同志を探し、フランシスコ・ザビエル、ペトロ・ファーブルなど、9人の賛同者を得て、1534年8月15日、モンマルトルの殉教者小聖堂で清貧、貞潔の誓願を立てた。「イエズス会」の出発ともなった。
1537年6月24日、イグナチオはベネツィアで司祭に叙階され、1540年9月27日、教皇パウロ三世から「イエズス会」の会憲が認可された。特徴としては、教皇に特別な従順を誓うとともに、キリストの兵士として勇敢に働くところにある。
1541年、イグナチオは「イエズス会」の初代総長となり、15年間、その重責を果たした。その間、フランシスコ・ザビエルが東洋に向けて出発し、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。同じころ、ヨーロッパをはじめ、ブラジル、インド、エチオピアなどで仲間たちが働いた。
イグナチオが熱意を込めたのは、青少年の教育であった。あくまでも神を中心とするキリスト教的ヒューマニズムに徹した教育を目指した。
神学の深い学識をもっていたライネスなどは、教皇からトレント公会議に送られ、教義の確立に貢献した。またペトロ・カニジオはドイツに派遣され、要理書の作成などに貢献した。
イグナチオは、ローマで現在のグレゴリアン大学を設立したり、養護施設、病院での奉仕、子供の要理教育、霊操による黙想指導などにも尽力した。
1556年7月31日、ローマの本部修道院で65年の生涯を閉じた。このころには1000人の会員にのぼり、世界各地で宣教した。
日本には、上智大学、栄光学園、六甲学院、広島学院などがある。
イグナチオは1622年、ザビエルとともに列聖された。2022年はちょうど400年になる。