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会員たちのコラム

パンデミック下のサイゴン レ・ヴァン・ビエン修練者

 主任司祭は明日からの公開ミサが一時的に中止されると信者にメッセージを送った。

 五月下旬の夕方、その日は暑くて風も吹かなかった。サイゴン教区全体が、新型コロナの感染拡大を防ぐため、公開ミサを中止としました。尊く、神聖なミサはもうありませんが、代わりにオンラインでのミサになりました。しかし、これはまったく想像しがたいことでした。

 私がまだ日本にいたとき、新型コロナが流行していたにもかかわらず、毎日ミサに出席していました。しかしベトナムに戻ったとき、それはとても恵まれていたことだと気づきました。ベトナムでは何ヶ月にもわたって、パンデミックを効果的に防いでいたので、まさか悪化するとは思っていませんでした。一時期、政府が人々にミサヘの出席を許可していた時がありましたが、参加人数は20人以下と限られていました。私は普段より早く起きて、急いで教会に行かなければなりませんでした。私はこのような典礼のあり方がまったく好きではありませんが、ミサがどれほど私の生活に栄養を与えているかを理解しています。

 日本での修道生活を振り返ると、もっと感謝する必要があるように感じています。一つは毎日ミサに与かれたこと。一つは必要な静けさに包まれた環境があったこと。ベトナムに戻った最初の頃は、通りの喧騒や、この壮大な南部の士地の猛暑とほこりのために眠れませんでした。この時ほど静かな東京を思い出さずにはいられませんでした。駅、満開の桜の季節、四季の花々、修道院の庭の木。日本で過ごした一二年間、時折バルコニーに座って風を肌で感じながら、親友や大切な家族の顔を思い出してはホームシックになったこともありました。これらすべてを今は神様に感謝しています。

 ですが、これからの私は、またホーチミン共同体特有の多くの音の響<世界に戻り、人生のリズムを作り上げなければなりません。

 帰国した頃のこの町は喧騒に満ちていましたが、今ではすっかり町中が静まり返っています。パンデミック前の騒々しい交通渋滞、混雑した人通りをなぜか懐かしく感じています。今は、毎朝、一緒に目を覚ましてミサに行き、お辞儀をすることを忘れずに聖母の像を通り過ぎ、全員が心を一つにして神を賛美する感謝の祭儀を思い出します。これらの聖なる行いは一時的に失われました。人生において、人々は大きな希望を抱いたり、夢を追いかけたり、才能に自信を持つ中で毎日繰り返される小さなことを忘れることもあります。今、この時ほど、ささいなこと、単純なことに心を留め、毎日の大切な霊的行いを大切にしていきたいと思っています。

 私を取りまく騒々しい生活環境の中でも、唯一、聖堂は静けさを保っています。小さな聖堂ですが、沈黙を求めたい魂を受け人れてくれるのに十分です。夜が街を覆ったとき、私はチャペルのやわらかな電灯の中で静かに一人で座っている兄弟を見ました。それがどれほど美しかったか。新型コロナのニュースは私を戸惑わせますが、夜、神様との時間を過ごすと心が落ち着くのです。

 新型コロナの感染拡大は未だ終わっておらず、人々は混乱した日々を送っています。しかしそれは彼らの信仰を試す機会でもあり、自身の魂を振り返る良い機会でもあります。信仰にはチャレンジ、召命には訓練が必要です。

 修練を延期されることを受け入れるのは難しいことでもあります。いつ修道士になるのかわかりませんか。しかし、修道士になる旅は止まることはありません。私の使命は誓いを立てることにとどまらず、人生のすべてを神様に捧げることです。奉献生活には多くの困難や、挑戦があることを私は知っていますが、主を持っている人はすでにイエスの弟子になっていると私は確信しています。

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