日本の教会では、11月の第3日曜日から第4日曜日までを「聖書週間」と定めています。この期間、わたしたちは神のことばである聖書により親しむように、またそのための具体的な取り組みをするように招かれています。
2024年の聖書週間は、11月17日~24日です。今年のテーマは「初めに言があった。」(ヨハネ1・1)です。(カトリック中央協議会)
神からの救いの啓示は聖書だけに限定されるものではありませんが、聖書は確実な神のことばです。わたしたちが救いを求めて生きようとするなら、聖書を救いへの確かな指針として、神からのかけがえのない贈り物、恵みとして大切にし、読み深めないではいられないことでしょう。テモテへの手紙二は、聖書について、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(二テモテ3・15-17)と述べています。
しかし、その一方で、聖書は難解な側面も持っています。ペトロの手紙二は、「〔パウロ〕の手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(二ペトロ3・16)と警告しています。聖書は、旧約も含めると、非常に古い時代から記されてきました。新約のいちばん新しい書物の場合でも書かれたのは2世紀半ばごろですから、今から約1900年も前のことになります。わたしたちとはまったく異なる時代に、異なる場所、異なる民族、異なる文化の中で、異なる言語をもって聖書は記されているのです。聖書の時代背景や地理・文化状況、言語の特徴などを学ばなければ、聖書を理解することは容易ではありません。しかし、実はこうしたことがすべて明確になっているわけではありません。わたしたちがどれだけ学ぶ努力をしたとしても、聖書の中には不明瞭な点が残ってしまうのです。
パウロの手紙を例に取ってみましょう。パウロは、ほとんどの場合、自分が設立した教会に対して書き記しています。おそらく、いくつかの具体的な必要が生じて、パウロは手紙を書き送っているのです。しかし、手紙の中に、パウロとその教会のかかわりのすべてが記されているわけではありません。むしろ、お互いがすでに知っていることは繰り返されることなく、当然の了解事項とされているのです。パウロがその教会を設立した様子やその後の経緯、具体的に手紙の中でどんなことが問題とされているのか……。こうしたことは、手紙を読むだけでは不明な点が多いのです。
しかし、わたしはここにこそ聖書の神秘が隠されていると思うのです。確かに、聖書は神のことばです。しかし、それは人間のことばによって記された神のことばなのです。神のことばは確かです。しかし、人間のことばは必ずしもそうではありません。神のことばは普遍的です。しかし、人間のことばは必ずしもそうではありません。どんなにすぐれた人間が書き記したものであっても、人間のことばは、その時代、場所、文化、言語、社会状況などの制約を受けます。人間のことばは、常に不確かさをともない、限定的で、過ぎゆくものです。神は、ご自分のことばを人間に示すにあたって、この人間の不十分さ、不確かさを尊重なさいました。そこには人となられた神であるイエス・キリストの受肉の神秘に通じるものがあると言えるでしょう。
人間のことばであって、神のことばである聖書。聖書を読み深めるには、この神秘をありのままに受け入れることが必要でしょう。神のことばが人間の不十分なことばの中に秘められています。だから、聖書のことばを「神格化」してはならないのです。書かれてある人間のことばの中にある神のことばをこそ受け止めなければならないのです。逆に、聖書のことばが不十分に思えても、そこにつまずく必要はないのです。その中に隠された神の永遠のことばをこそ探し求めていけばいいからです。ここに人間のことばを読み解いていく努力と、神のことばを前にした礼拝の姿勢が両立していくのです。
わたしたちは、「ことば」であるイエスを聞き分け、受け入れることによって、この神秘に招き入れられます。受肉したみことばであるイエス、まことの神でありまことの人であるイエスを映し出す聖書に親しむことは、この神秘に分け入るための確かな道なのです。聖書を読むことが単なる「読解」や「理解」にとどまるのではなく、イエスとの生き生きとした神秘的交わりをはぐくむものとなるように、この聖書週間にあたって願っています。