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カトリック入門

「カトリック入門」 第52回 聖パトリック【動画で学ぶ】

 聖パトリックは385年頃、スコットランドのダムバートン近郊に生まれた。(他の説では、イギリスのウェールズとも言われる)ギリシア・ローマ文化の教養を身につけ、温厚で繊細な性格だった。両親ともキリスト者であった。母は「詩編」を教えた。

 401年、16歳の時、海賊からアイルランドへ拉致され、奴隷として売り飛ばされた。やがてアイルランド北部の地主であるアントリンという人に手に渡り、そこで6年間、羊飼いの仕事をした。

 ある日、夢の中で「おまえの主人から逃げて、海岸へ行きなさい。アイルランドへ行って、キリスト教を広めなさい」というお告げを受け、海岸まで300キロも離れていたが、脱走に成功し、海岸にたどり着いた。そこで船乗りたちと一緒にイギリスへ連れていかれた。困難にも出会ったが、故郷にたどり着き、両親にも再会できた。
 407年、6年ぶりに故郷に戻ってきたパトリックは、22歳になっていた。その後、キリスト教の神学を学ぶためフランスへ行き、フランスのレリン修道院で勉強し、のちにオークセール修道院で神学を学んだあと、地元の司教の手によって司祭に叙階された。

 アイルランドでは、最初の司教パラディオが急に亡くなり、パトリックが431年に教皇チェレスティーノ一世によって、後継司教に任命され、アイルランドへ派遣された。この教皇は、「エフェソ公会議」を開催し、聖母が「神の母」だと教義決定を行った。

 当時のアイルランドでは、カトリック信者は少なく、住民の大半は偶像崇拝に陥っていた。そこで、パトリックはアイルランドに上陸してから、最初の復活祭にタラのスレイン山に登った。ケルトの祭りが行われていたが、パトリックは堂々と王に向かって神のみ言葉を熱心に説いた。それは三日三晩続いた。その結果、首長をはじめ、多くの住民が洗礼を受けることになった。

 パトリックは、アイルランドのケルト人の信仰・ドルイド教を排斥するのではなく、キリスト教と在来信仰とも融合させ、キリスト教が広まっていった。ケルト十字架は典型的なものである。

 やがて信者の数が増え、パトリックは島全体の宣教に力を尽くし、北アイルランドのアーマー教区の大司教に推薦された。

 パトリックは辺鄙な地方にまで365の教会を建設し、多くの修道院を設立し、多くの人を回心させ、2000人を司祭に叙階したといわれる。また200人を司教に叙階した。また人々にカトリックの要理、とりわけ三位一体の秘義、聖母が神の母であることを教えた。こうした働きにより、パトリックはアーマーの大司教に任命された。そして8世紀にはほとんどのアイルランド人がキリスト教徒になった。

 パトロックは、タラの丘で、そこに群生していたシャムロックを使って、人々に三位一体の教義を説明したといわれる。これはアイルランドのシンボルマークになっている。元来、ケルト人の在来信仰において、「3」という数字は神聖視され、ケルト神話の「三組神」信仰がベースにあったため、アイルランドのケルト人にとって受け入れやすいものでもあった。

 約40年間の宣教の後、461年3月17日、北アイルランドのソール教会で亡くなった。76歳であった。

 パトリックはアイルランドから蛇を追い出したといわれる。それでアイルランドには蛇が一匹もいない。

 クローパトリックへの登山。毎年、7月最後の日曜日に登山。

 山の頂上に教会があり、パトリックは四旬節の40日間、ここで断食をおこなったといわれる。登山口で、パトリック像の周りを三回まわり、中間地点で、三回回り、山の頂上にパトリックが休んだといわれる石のベッドがあり、そこを三回まわる。頂上でゆるしの秘跡を受け、ミサに参加する。

 毎年、3月17日にはパトリックの祭りが行われる。特にダブリン市内はシャムロックの緑一色になり、街頭パレードが行われ、パブでのケルト音楽がライブで行われたりする。

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