アルベリオーネ神父は、大正から昭和にかけて映画が登場すると、これも宣教の手段として活用することにした。たまたま一九三六年(昭和一一年)ピオ十一世教皇は「ヴィジランテ・クーラ」(目ざめて警戒せよ)という回勅を出し、不道徳な映画に対抗して、よい映画を作るように勧めた。そして第二次大戦が起こる前に、パウロ会員のエミリオ・コルデロ神父に映画の使徒職をまかせた。
コルデロ神父は、一九三八年(昭和一三年)「アブナ・メシアス」という題名の映画ほ含めて三本制作した。「アブナ・メシアス」は、アフリカの宣教師マッサーヤ枢機卿の生涯を描いたものであるが、これは翌年のヴェニス映画祭で受賞した。しかし、いずれも大金はつぎこんだものの、売れゆきはさっぱりだった。
映画界というのは、商売仲間が結束していて、新人がいくらよい映画を製作しても組合に中々入れてくれない。組合の外では販売網も上映館もフィルムを取ってくれない。このかたい壁にぶつかって聖パウロ会は大変な赤字をかかえこんだ。担当者は悩みに悩み、ほかの会員のアイディアを取り入れ、頭の切り替えをした。すなわち映画の製作よりも、すでにでき上がっている善い映画を買い取り、これを16ミリのフィルムにして各教会やカトリック教育施設などに賃貸しするというアイディアである。
コルデロ神父は、大きな映画会社へ行ってフィルムのリストを見せてもらい、そのうちから良いのを選んで二、三〇本買い取った。次にフィルムの内容を紹介した広告をつくり、それを各教会や施設に送った。こうして毎週、教会や施設から、貸しフィルムの注文がきた。たいてい日曜日に上映するので、金曜か土曜に貸し出し、月曜に回収した。まもなくこれが成功し、イタリアのあちこちに二〇軒ぐらいのフィルム貸し出し代理店(サン・パウロ・フィルム)を設け、修道士やシスターが宣伝に回った。
この買い取りの娯楽映画のほかに、アルベリオーネ神父の意向に従って、パウロ家では宗教映画、教育映画の短編も制作している。その一つに男子パウロ会と女子パウロ会との合同で一九五〇年に制作したカラー映画「神の母」がある。また一九五一年から五四年までカトリック要理を解説した短編映画が五二本製作された。なお一九五三年にはキリストの生涯を描いた映画「人の子」が製作されている。なお、パウロ会の映画の企画、製作設備の中心は、ローマ近郊のポルトゥエンセ地区のヴィア・ソペルガにあり、サン・パウロ・フィルムと呼ばれている。
映画の使徒職について、アルベリオーネ神父は、次のように書き残している。「もう一つのことを言わなければならないとしたら、映画の使徒職のために召命が来るように、と言いたい。この使徒職は困難であると言われるであろう。実に常にむずかしいものである。だから、これを放棄してしまうか、あるいは神の多くの恵みに信頼し、勇気を持って困難に立ち向かい、雄々しく働き、最後までいさぎよく戦うかのどちらかを決めなければならないであろう。
……おお美しい女王マリアよ、私の頭の上に、あなたの甘美な手を置いてください。私の知恵と心と感覚とをお守りください。マリアは映画芸術に霊感を与える。従ってその使徒職が完成し、達成しうるためにすべての善を目的に向ける。」
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。