いよいよ外国伝道の機が熟したと見ると、アルベリオーネ神父は「全世界へ行って、すべての人びとに福音を宣べ伝えなさい」(マタイ16,15)という主イエスの勧めと聖霊の霊感に従って、弟子たちを外国へ派遣することに決めた。神父が聖霊の霊感に従ったというのは、一九三四年十月、アルバ修道院の人たちにした次の説教からも明らかである。
「聖霊は、このごろ特別な方法で霊感を与えてくださるみたいである。私たちの修道院に満足しておられ、さらにパウロ精神が、ほかの国々、遠い国々にもたらされるようにと望んでおられる……」と。
この外国伝道は、アルベリオーネ神父自身の少年時代からの夢でもあった。ブラの神学校にいたころは、宣教師にあこがれ、宣教地に関する記事を読みあさり、宣教師たちの話も喜んで聞いた。例えば、サレジオ会、コンソラータ会、ミラノ外国宣教会などの布教誌を読んで、自分も人びとに福音を伝えたい、未開地で働きたい意欲を燃やすようになった。アルベリオーネ神父が宣教師に初めて関心を持ち出したのは八歳の時であった。ケラスコの教会で一八九二年(明治二五年)の御公現の祝日に、布教地につてたの説教を少年ヤコブは聞いて感激し、のちに回想録にこう述べている。
「八歳の時、サンタ・インファンツィア(聖児童会)という組織を知り、その事業に積極的に参加するように勧められた。この会は毎年御公現の日に宣教のために献金し、祈る運動を少年たちの間に広めていた。一二歳から一六歳まで、ほとんど毎日のように『信仰公布』の合本や『聖児童会』の合本を読んでいた」と。
またブラの神学校に、白衣宣教会の宣教師が泊まったことがあった・ヤコブは、その宣教師の話を聞いて、その会に興味をひかれ、学友と二人で、カルタゴにある白衣宣教会の神学校長あてに、ラテン語の手紙で入会の条件などについて問い合わせたことがあった。
なお先の回想録には、続けて、こう述べられてある。
「……司祭になってからは布教のための献金を集め、宣教者のために協力したり、特別の機会に宣教について説教したり、未信者への福音伝道というすばらしい事業に従事している人びとと会見したりしなければならなかった。彼(アルベリオーネ神父)が特に心を打たれたのは、アジアとアフリカであったる人は自分から離脱すればするほど、イエス・キリストが人類にもたらされた天のたまものをいまだに手に入れていない気の毒な人びとの必要としていることを広く深く感じるものである。そして、この気持は神との親しみに深くはいって行くほどに、生き生きとしている。」
以上の福音伝道についての聖霊の霊感は、アルベリオーネ神父の創作した聖パウロ会の祈祷書の中の次のように反映されている。すなわち「広大なアフリカ、果てしないアジア、将来性に富んだ大洋州、苦悩する南北アメリカの状態が、私たちの心を奮い立たせますように……」と。
それでアルベリオーネ神父は、まず一九三一年(昭和六年)にブラジル、アルゼンチン、アメリカ合衆国にパウロ会員を派遣し、翌年にはフランス、越えて一九三四年(昭和九年)にスペイン、中国、ポーランド、日本にも派遣したのである。
次にパウロ会員が、日本に派遣されるまでの経過と、その後の活動を述べてみよう。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。