一九三〇年にアルベリオーネ神父は、聖パウロ修道会をローマに開設する時が来たことを祈りのうちに感じていた。聖パウロ修道会の保護者聖パウロはローマ人へ送った次の手紙の中でローマへ行く切なる望みを表明している。「私は常に祈りのうちに神の思し召しによって、いつかあなた方のもとに行こうと願っている」(ローマ1,10)。
キリスト教の中心地、永遠の都ローマでなら、聖パウロ修道会も、全世界にもっと知られるにちがいない。それにまた、会を組織だてるにしても指導するにしても有利である。特に会員たちは、ローマだけが伝達しうる「カトリック精神」を、いっそうたやすく、いっそう豊かに獲得しうるにちがいない。アルバの片田舎にいては、イタリア国内の使徒職にだけおさまりやすい。しかしローマに行けば、外国にも目が向く。アルベリオーネ神父は、ローマにパウロ家ができる前に、用事でローマに来たついでに、城門外の聖パウロ大聖堂の中で、よく祈ったものだある。そして以上のことを神の霊感で正確に予見し、次のように述べている。
「イエス・キリストは、人びとを待たないで、探しに行きなさいと教える。聖師と同じく使徒は都会に、田舎に、家に、僻地の家にも神のことばを普及させねばなりません。山々を越え、大洋を渡り、すべてのところへ行って、すべての人が照らされるようにしなければならない。
パウロ家は、全世界に向けて広く開かれている。すべての問題、すべてのできごとを福音の光にあてて判断し……すべての民の心にキリストをもたらさねばならない」と。
こうして一九二五年の聖年にアルベリオーネ神父はローマな聖パウロ会を設立しようと、弟子のコスタ神父をローマに送り、土地を見つけさせた。それで男子パウロ会のためには、城門外の聖パウロ大聖堂から歩いて二〇分の行程にあるオスティエンセ通り七五番地に、女子パウロ会のためには、そこから五百メートル離れたポルト・フルヴィアレ通りに借家を見つけた。
一九二六年一月十三日の午後、聖パウロ会の一同をアルバノ母院の聖堂に集め、教皇やローマ市、聖パウロの墓地について語り、さらにパウロ家は、教皇庁のおそばもとで、直接に教理の源泉に触れ、聖座に奉仕すべきことについて長い間語った。ついで「今夜、ジャッカルド神父さまと神学生一名、高校生一四名がローマに新しい修道院を設立するために出発します。かれらのために祈りましょう」と言って祈りをすすめた。
翌朝、ローマに着いた一行は直ちに聖パウロ大聖堂に行き、ジャッカルド神父のミサにあずかり、聖体を拝領した。その後、オスティエンス通り七五番地に貧しい、せまくるしい家に着き、三年以上、そこに滞在した。ここでの生活は実に苦しいものであったが、ジャッカルド神父の指導よろしくみなそれによく耐えた。アルベリオーネ神父はかれらにこう書き送った。「あなた方にとって頼れるものは神だけだという状態にあるのを知って、私は喜んでいます」と。彼らは住居のすぐ近くの大きなバラックでイタリア中南部の教区報および「ラ・ヴォチェ・ディ・ローマ」(ローマの声)という週刊新聞を印刷した。その週刊新聞の内容はアルベリオーネ神父の考えに従って、おもに教皇のことばや聖座の行事などであった。
ローマの聖パウロ大聖堂を管理するベネディクト会大修道院長シュステル(のちの枢機卿)は、一九二六年ごろのローマ聖パウロ会についてこう語っている。「私はほとんど毎朝のように、敗れた靴をはいた少年の一組が敬けんな一司祭に連れられて、ここの大聖堂へミサ拝聴にくるのを見た。ある朝のこと、ミサが終わってから、かれらを香部屋に読んで聞いてみた。『君たちは、どこから来たの? 何しているの?』『アルバから来ました。聖パウロ会の者です。印刷を少しばかりやっています』『教区長の許可を受けた?』『受けていません』『それでは、私から教区長に頼んで何とかしてあげよう』と。」
こうしてジャッカルド神父の善良な人柄と志願者たちのまじめな信心と働きは、シュステル院長をはじめ、多くの人びとの信望をえてローマの修道院に有形無形の援助をもたらすもととなった。
そして同年七月、ローマの聖パウロ大聖堂から一キロ離れた丘陵地帯、五百平方メートルをベネディクト会からゆずり受けた。そこが現在パウロ会のローマ修道院のある所である。ジャッカルド神父一行は、同年十月、そこにあった古い農家に引越し、修道院の建築を始め、翌年から、そこにも住みはじめた。聖パウロ女子修道会のシスターたちも同じ土地の反対側に修道院を建てた。
この小さな二つのパウロの家族は、まさしく聖パウロが自分の墓近くに植えなおすことを望んだブドウの木の枝であった。彼らも、聖パウロが栽培し、せん定し、嵐とひょうから守った真のブドウの木であることに気づいたのであった。
アルベリオーネ神父は、この新しいお恵みを感謝し、次のように書いている。「あなたたちは、聖師パウロの保護のもとにある、りっぱなブドウ園である。どうぞ、白と黒のブドウを作ってください……」
さてアルベリオーネ神父がジャッカルド神父をローマに送ったのは、ほかの理由もあった。それは、パウロ会を教区法による修道会として教皇庁より正式に認めていただくことであった。修道者聖省は、アルベリオーネ神父の事業を好意的に見ていたが、はじめは私的誓願だけの在俗会にしておこうと考えていたのである。実際初期のパウロ会は、普通の会社みたいな事業形態であり、みことばの宣布にしても即存の修道会の学校あるいは説教によるものとは違って、マス・メディアによる新しいものだからである。
次にパウロ会が教区法による修道会として認められるまでの経過を述べてみよう。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。