アルベリオーネ神父は、聖パウロ会の出版布教に協力する信者の会を組織し、一九一七年(大正六年)六月三十日アルバ教区長レ司教の認可をえた。これはマス・コミの使徒職にたずさわる修道会に対し、霊的・知的および物的に協力、援助する寛大な人びとの集まりである。
とくにアルバの司教座参事会員キエザ神父は、パウロ家が誕生する前からアルベリオーネ神父に祈りと助言と働きで協力していた。パウロ家が誕生してからも、キエザ神父をかしらに、アルベリオーネ神父の事業に協力する敬虔な人びとのグループができた。
この協力者たちは、聖パウロの精神に基づいて自分たちのキリスト教的生活を改善し、気まえよくお金を寄付し、多くの志願者を送り、進んでパウロ会の出版物を買い、これを多くの人に普及させた。聖座は、この人たちの善業に対して、罪の償いの免除を与えた。また聖パウロ会は、毎年感謝のしるしとして、すべての協力者のために二四○○のミサをささげている。
「パウロ会の諸修道会は、長期にわたる数えきれないほどの犠牲、祈り、おささげの結実である」とアルベリオーネ神父は述べながら、パウロ家に尽くした多くの聖職者と信者を思い浮かべて祈っていた。 翌一九一八年十月二十五日から「善い出版物の協力者会」(Unione Cooperatori)という新しいパンフレットを発行して、これを協力者に配布し、協力者相互の連絡、協力者と聖パウロ会の一致協力を促進させた。アルベリオーネ神父は、後年、この協力者会について、こう回想している。
「朝ごとにカリスにそなえて主にささげる祈りの中に浮かぶ第一の考えは、協力者の役割であった。この協力者は今日では、まだまだ限られたものではあるが、霊的、知的、経済的な協力の役割を果たしている。
……全世界での協力者会員は、今日では、たしかに百万を超えるだろう。祈り、活動、献金によって、あるいは、召命のある子女を入会させることなどによってパウロ家のために尽くしたすべての人びとが救いを得るように、また死後直ちに、あるいは、少なくともなるべく早く神にまみえ、永遠に神を所有し、愛し、楽しむことができるようにとの意向を、いつも彼は祈りのうちに保っている。
……協力者は、パウロ家を理解する人びと、パウロ家とともに、精神と意向の一致を築いている人びとである。彼らは、自分たちにできる方法で、パウロ家の二つの主要な目的を共有し、自分たちの可能性に応じた貢献をする。一方パウロ家は、彼らのキリスト教的教育を促し、彼らを模範的生活に導き、修道会の善と使徒職の功徳に参与させる。ここに、善の交換という真の友情がある。協力者たちは、修道生活を手本にしたいと望んでいる。
すなわち、清貧は、福音的意味で地上の財宝から離脱することによって、貞潔は、自分たちの身分に応じて、身なりの純潔さを守り、従順は教会当局者や為政者や家長に従うことによって修道生活にならう。キリスト教教義の宣教は、聖パウロ修道会の使う最も迅速で、広範な手段に便宜を与え、その刊行物を普及させることによって、また祈りと働きと献金によって協力する。
パウロ家は、その計画を協力者たちに打ち明け、やるべき働きの指示を与え、彼らを労苦にも喜びにも参加させ、『パウロ家の協力者』(Cooperatore Paolino)という月刊誌を通じて聖化の手段を教える。そのほかパウロ家は協力者のために祈り、協力者が生者か死者かを問わず、毎年、かれらのために二四○○回ミサをたてる。」
一九一八年十月二十四日の夕方、アルベリオーネ神父は、コオペラトーレ(協力者)誌第一号一万部をご聖体のある祭壇の近くに置いて、ご聖体を入れた聖体器でこれらの雑誌を祝福した。
一九二一年九月一日、アルベリオーネ神父の発案で教会向けの「ラ・ドメニカ」(日曜日)という週刊誌が創刊された。これは日本でいえば、さしずめ「聖書と典礼」誌に似たもので、主日の聖書、典礼の精神、ミサにあずかる心がまえなどを紹介し、大いに主任司祭の助けになった。これに似たものはアルゼンチンやブラジルにもあるが、アルベリオーネ神父は、この点でも五○年先を歩いたとも言える。
「ラ・ドメニカ」に続いて数か月後に「ウナ・ヴオナ・パローラ」(一つの善いことば)という週刊誌もアルベリオーネ神父の発案で誕生した。これは信仰の真理や時事問題を深く掘り下げて考え、これに一つの善いことばを解説として加えたものである。おもにカトリック・アクションの青少年向けに編集された。この週刊誌もアルフレッド・マネラ神父の功績で、よく出たが、第二次大戦中に廃刊となった。
そして一九二四年九月に、アルベリオーネ神父の勧めで、パウロ・マルチェリーノ神学生が子供たちのために「イル・ジョルナリーノ」(小さな新聞)という週刊誌を発行した。内容は編集長の挨拶、子供スポーツ、子供ニュース動物の話、内外の動き、小説、子供の手紙などであった。これは二色刷りの八ページのものであったが、徐々に部数がふえ三万部まで行き、のち停滞を続けた。戦後、四色刷りにし、ペーシ゜をふやし、内容を豊かにし、普及販売をふやして、今では一五万部ぐらい出ている。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。