アルベリオーネ神父は、次の問題解決に向かった。すなわち先の神学生の問題である。
「もと大神学生であった青少年たちに、ふたたびスータンを着せ、司祭へのコースを歩ませていただきたい」というような嘆願書を、神父は書いた。これを、おもに教会の主任司祭の所へ持って行って、「賛否のサインをしてください」と頼んだのである。
八名の青年たちは、アルバ教区のために大きな手柄をたて、布教のために大活躍しているのに、この人たちに司祭職への道を閉ざす理由はない、ということで、みんなOKのサインをした。
こんどはその署名を教区長であるレ司教にさし出し、顧問会にかけていただいた。そこでも「教区の恩人になっている、この青年たちを、いじめてはいけない」ということで、大神学校への復学を許可したのであった。
こうして例の青年たちは、スータンを着て使徒業のかたわら神学を学んで、しだいに司祭となり聖パウロ会の基礎を築いて行った。この八名はトロッソ神父、ボラノ神父、フェノリオ神父、ロバルト神父、キャヴァリノ神父、ギオネ神父、マネラ神父、バッソ神父であった。
こういう段階にまでもって行ったアルベリオーネ神父のすばらしい意志力、実行力はアルバ教区に類例のないものであった。神父は、単行本の営業部門でも、部下の青年にすばらしい手腕を振るわせた。デシデリオという青年(のちのコスタ神父)を外交官に育てた。
もともとドモリがちで勉強にも外交にも不向きに見えたが、そのドモリをなおして、イタリア全国のカトリック書店をまわらせ、聖パウロ会発行の本を売り込ませ、着実に注文書をとって帰ってきた。
最初は汽車でまわったが、次にはオートバイで地方の教会をまわり、そのあと軽自動車でイタリア全国をぐるぐるまわって、りっぱにセールス・マンの役目を果たした。そのため、何百万冊にのぼる注文書がイタリア全国から舞い込んだ。
先の週刊新聞といい、単行本といい、営業部門の充実を何よりも配慮していたアルベリオーネ神父のすぐれた営業能力には敬服するほかない。これによって聖パウロ会の初期の経済的基礎は固まりつつあったが、次に述べるような厳しい試練に出会ったのである。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。