一九一四年八月二十日、市場に近いピアッツア・ケラスカ(Piaxxa Cheasca)の借家で聖パウロ会の創立祝いがあった。アルベリオーネ神父と少年数名、雇い人からなる共同体は、はじめ「若年労働者の印刷学校」と名づけられた。この人たちと数人の恩人や知人の集まる中で工場や機械が祝別され、短い挨拶の後、乾杯が行われた。
アルベリオーネ神父は、パウロ会の創立の日を八月二十日、聖ベルナルドの祝日に選んだ理由をこう述べている。
「教会は、この日を教会博士の記念にささげている。この聖人は、その政治的、宗教的時代を支配した。非常に激しい使徒職と、最も高い観想とを調和させることを知っていた。そして蜜のしたたる甘美さと、地上の権力者をひきつけ、教皇の師となるほどの大胆さで著作した。だから、この名は聖パウロ会の“誕生の日”のためによい保護者であった」と。
その日の夜、アルベリオーネ神父は、若者たちを連れて、近くの聖カタリナ教会へ祈りに行った。聖堂では、この日の朝に逝去したピオ十世教皇の冥福を祈り、生まれたばかりの聖パウロ会のために必要なお恵みを祈り求めた。
この日の午後、アルベリオーネ神父は、「アルバ教区新聞」の編集を仕上げるために大神学校へ行ったが、この時、「ピオ十世の死」という悲しいニュースに接した。そして一か月とたたぬうちに第一次大戦がぼっ発し、イタリアも、以後四年間、一九一八年までこの悲惨な大戦に巻きこまれることになった。当時、この大戦はアルベリオーネ神父のはじめた事業にとって大きな試練となった。不景気が高まるにつれて、生活費も印刷費も高くなるし、印刷物もおいそれと売れるわけではない。借金は積もりに積もった。ついには神父の大胆を非難し、事業ほつぶさうと運動する人たちも現れた。中にはアルベリオーネ神父のいのちを狙う人もいたが、ふしぎにも神父は何回となくいのち拾いをした。タナロ川の橋の上で、神父に敵意をもつ人がたずねた。「おまえがドン・アルベリオーネ(アルベリオーネ神父)か?」「はい、私です」「おまえはドン・アルベリオーネではない。ドン・イムブリオーネ(ペテン師)だ」と。警察力も強くない当時とて何をされるかわからないので、神父は一人歩きを避け、頑丈な志願者をボデイガード(用心棒)として身辺につけて外出していた。また社会党員らが印刷工場や修道院や新聞に火をつけてやると脅迫してきたので、アルベリオーネ神父は用心して夜もおちおち眠られなかった。協力者の寄付で、せっかくでき上がった建物を灰にしてしまえば、何としても申し訳なかったからでもある。しかし、アルベリオーネ神父をはじめ、会員や志願者たちは、自身をもって、ロザリオをとなえ、聖パウロの取り次ぎを願い、アルベリオーネ神父の意向に従って聖体訪問をしていた。
いろんな障害にもかかわらずアルベリオーネ神父は、大きな事業は「馬小屋からはじまる」という信念で、生活を切りつめながらねかんたんなパンフレットや小雑誌を次々と出版し、志願者の手を通して町や村にくばって歩いた。
当時、アルベリオーネ神父は、印刷技術を若い志願者たちに教えるため、アスティからヨハネ・マコッロ(Marocco)という印刷の職人を雇っていた。
このマロッコ氏は、若い時からサレジオ会関係の印刷工場で働き、製本や植字など、印刷の技術面で経験の豊かな人であった。アルベリオーネ神父は巡回説教の際に、この青年に会い、その仕事ぶりを見て、聖パウロ会の印刷部門の指導と志願者の規律面の監督をもまかせたのであった。ヨハネ・マロッコ氏は、当時を、こう回想している。
「アルベリオーネ神父は、非常に感じのよい方で、将来の夢をひそかに私に打ち明け、私のすべきことを細かく説明し、経済状態を教えてくれ、私の給料をも決めてくれた。私はできるだけ早く手紙で返答すると答えた。」
そのころ、アルベリオーネ神父は、アルバ大神学校に寝泊まりしていて、学生の霊的指導や授業をしていた。それが終わると、印刷所に来て志願者たちを励まし、自分の方針に従って印刷面の指導をしていた。そして夕方には志願者たちを連れて散歩し、涼しい風のそよぐ丘の上に志願者たちをすわらせ、これからの遠大な計画を語って聞かせて言った。「聖パウロが、もし現代に生きていたら、必ずジャーナリストになったであろう」というマゴンツァの司教エマヌエル・フォン・ケッテラーの名言を繰り返していた。そして若者を集めた理由を少しずつ説明し、「新たらしい修道家族のために生涯をささげなさい」と勧めていた。さらに神父は「良い出版物を通じて私たちは沢山の良いことができるに違いない。これは説教の形態を変えるもので、効果はいっそう上がるに違いない。この理想に達するため、君たちが聖人にならねばならない」と強調するのであった。
また神学校の近くの聖カタリナ聖堂に連れて行っては聖体訪問をし、日曜日には聖堂前に売店を開いて、書籍や新聞を売っていた。この小さな共同体はきわめて家庭的な雰囲気につつまれていた。台所の仕事や衣服の世話は、近くに住む婦人たちが通いでやっていた。当時の志願者たちの日課は五時間の印刷の仕事のほかに、授業、自習など極めて厳しいものであった。
そのころ、アルベリオーネ神父は、プリモ・マエストロ(第一の先生)と呼ばれていた。プリモ(第一)と言われるのは、彼が創立者であるばかりではなく、すでに会の中で働いている先生(マエストロ)たち、院長、修練長、使徒職の長などの第一人者だったからである。その上、彼は、教師の中の教師、徳においても、修道規律の遵守においても、兄弟愛の実践においても、まことに第一人者だったからである。
その当時のアルベリオーネ神父の個性について、マルチェリーノ神父はこう述べている。「プリモ・マエストロは、何かまぶしい霊感を受けてから、事業をはじめていたが、先々の困難や事業の成否などについて、最初から見通していたわけではなかった。私たちに“こうしましょう。こうしなければならない”と言って事業を始めるが、それがうまく行かなくて、本人自身もまわりの人も悩みに悩む。たいてい平坦な道をまっすぐ行くより、回り道をして、あちこち手さぐりで進むというタイプであった。私たちが『なあんだ、あんなに苦労しなくたって、すんだのに……』と言うことがしばしばあった。いったんこうと決めたことについては、ほかの人に耳をかさず、がんこなまでに絶対に考えを変えないで一つのことをやり通していた。
ある日、私は常日頃考えをいることを食卓でプリモ・マエストロに言った。『私は、あなたとカノニコ・キエザ神父の個性を研究しましたよ……』『ほう、どんなことがわかりましたか』『あなたは論理的に行動しない。あなたは何かまぶしい霊感を受けると、私たちに何も説明しないで“これをしましょう”と言うだけで私たちにやらせてしまう。つまり直感型の人です。しかし、カノニコ・キエザ神父は、いつでも論理的に行動し、むだな所がひとつもない。いわゆる学問的で理論型です』と。
ところが神の霊は人間の思惑や小細工に左右されず、思いのままに吹く。神の良い道具となったアルベリオーネ神父は、次に示すように当時は全く型破りと思われる活動を次々と展開し、人びとをはらはらさせるのである。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。