アルベリオーネ神父は、一九一四年に聖パウロ修道会を創立したが、その数年前から幾人かの青少年を未来の会員に選び、マス・コミによる布教の理想を語って聞かせ、かれらの知育、徳育、宗教教育に携わった。一九〇八年ナルゾーレ時代ジャッカルド少年を神学校に入学させ学費を出してやったことは前にものべた。そのほかにも一九一〇年神父はベネヴェロ教会でアルマーニ少年のちのティト神父に出会った。ティト神父は、当時をこう回想している。
「一九一〇年、一一歳の私は、アルバ近くのベネヴェロ教会に来て、ミサや説教、聴罪、黙想などをしていた。神父の話は、単純、明快で魅力的なものであった。ミサが終わると、カトリック要理の質疑応答がありました。アルベリオーネ神父が先生の役を演じ、質問しますと、生徒役の主任司祭が、それに応えます。その話し方が面白くて、みんな注意して聞いていました。
また神父の指導する青少年の黙想会にもあずかり、神父の話は特別に熱心に聞いたものです。ある日、私が神父のささげるミサの持者をしていました。ミサが終わって香部屋に入ると、神父は私にこう言いました。『君は司祭にならないかい』私はその場で何と答えてよいかわからずにためらっていると、『まあ、よく考えることだね。毎日、アヴェ・マリア(天使祝詞)をとなえなさい』と勧めました。次の機会に私はアルベリオーネ神父に言った。『私は司祭になりたいと思いますが、家は極貧で勉強などさせてくれる状態ではありません』すると、神父、やさしくおっしゃいました。『心配しなくてもよい。私が面倒を見てあげるから……。』まもなくアルベリオーネ神父は私をベネヴェロ村の煉獄援助姉妹会にあずけて、中学の課程にはいる準備をさせました。それからブラ町の小神学校に入学させ、翌年、そこからトリノのサレジオ学園に転学し、聖ヨハネ・ボスコの教育法を体験いたしました。
一九一四年の夏、アルベリオーネ神父は私に、こう手紙を書きました。『アルバで、私といっしよに休暇を過ごさないか』私は大賛成で、打ち合わせた時日にアルバ神学校のアルベリオーネ神父のもとへ行きました。そこの応接間で私はもう一人の聖パウロ会員の卵であるデシデリオ・コスタ少年に出会いました……」
このコスタ少年は、カステリナルドでアルベリオーネ神父と出会い、神父に招かれたのであった。同神父のことばによると「良家の出身で、敬虔な、きちょうめんで賢い少年」であった。コスタ神父は、当時をこう回想している。
「アルベリオーネ神父は一九一三年アルバ市から一〇キロほどあるカステリナルド村の処女たちの黙想指導に来ていましたが、私はこの時はじめて神父に会いました。その前にも神父のことについてアルバ神学校の神学生であった兄から聞いていました。神父の話はわかりやすく、典礼用語も一般大衆にわかりやすいイタリア語を使っていました。その年の秋に、私もアルバの神学校に入学し、アルベリオーネ神父に、心をすべて打ち明け、直接その指導を受けるようになりました。神父は私を暖かく迎え、たえず私を励まし、非常に困った時も私を支えて下さいました。翌年一九一四年の学期末(六月)に、アルベリオーネ神父は私にこう言うのです。『君はもう次の新学年には、神学校に戻らなくてもよいと思うけどね。それでも司祭になれるよ』と。私は本心もっと勉強して教区司祭になりたかったのです。数日後、神父は、また私に言うのです。『君はどこかへ行かなくてはならないよ』『どこへ?』『あとからわかるから……』そして夏休みに帰っている私の実家に来て、『私といっしょに来なさい』と勧めますので、私はついてゆきました。神父は、アルバ市のケラスコ広場に一軒の家を借りていましたが、そこに私を連れて行ったのです。当時、神父は三〇歳、私より七つ年上でしたが、一つの言葉、一つの目つきだけでも人をひきつけるずばぬけた才能をそなえていたようです。人を励まし、善業に人を引きずりこみ、熱中させる霊能(カリスマ)をそなえ、ひと言で人を引っ張ることができました。こうして集まった私たち少年グループに、プリモ・マエストロは、こう話しました。『新しい修道会のために生涯をささげてくれ。良書を通じて私たちは、沢山の善業ができるに違いない良書は説教の代わりをし、その効果をいっそう上げるはずである。本、雑誌、印刷工場も書店も説教の代わりに役立たせることがあるこの理想を実現らせるには、まずあなた方が聖人になければならない』と。」
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。