師イエスは、「私は生命をしかも、豊かな生命を与えるために来た」と言われました。これに似たことばを、聖パウロの手紙にも見い出すことができます。「司祭は人間のため、また、神に関することのために遣わされた」のです。
したがって、司祭は、神の栄光と人々の救いという二つの課題を持っています。
聖パウロには、信仰と霊魂への熱心がもえたっていました。異邦世界の状態を思いめぐらしながら、聖パウロは、心に、たえざる痛みを感じていました。聖パウロの生涯は、いくつかの時期に分けることができます。
第一期
ベンヤミン族のユダヤ人、ファリサイ人、ローマ市民として、タルソにうまれ、エルザレムで有名なガマリエルに教育を受けました。個人的には、生前のイエス・キリストを知る機会を持ちませんでした。西暦紀元のはじめに生まれたサウロは、生まれたてのキリスト教に対し、ひときわ嫌悪と憎しみをいだいていたのです。
ステファノの敵たちが、彼を石殺しにしたとき、パレスチナ以外の地まで、キリスト信者を迫害するためにおもむいて行きました。
第二期
イエスはダマスコで彼を待ち伏せ、迫害者から熱烈な使徒へと変えられました。それは西暦35年ごろのこと、パウロが35歳くらいのときだったと思われます。
第三期
パウロは約10年間、静かな生活を送り、そこで祈り、研究、労働にいそしみ、イエス・キリストの生涯と救いのわざ、福音宣教を黙想していました。
第四期
45年から60年の約22年間、パウロは、宣教旅行をしましたが、そのうち5年間は、とらわれの身でありました。
聖パウロはアンチオキアをその旅行の出発点とし、また帰着点とも定めました。
a 聖パウロの第一回宣教旅行は、45年から、48・9年の間に行われました。司教に叙階されたパウロは、まず、キプロスに、つぎにパンフィリア、ピシディア、リカオニアなどに行きました。そして、すばらしい業績をあげ、アンチオキアに帰って行きました。
b 第二回の宣教旅行は、49年から52年まで行なわれ、エルサレム公会議後、第一回宣教旅行の同伴者バルナバと別れ、シラを連れ、フリジアとガラチアに福音をのべるため、アンチオキアを出発しました。ヨーロッパに渡り、フィリッピとテサロニケ、またギリシアに渡り、コリントに教会を建て、そこでアクイラの客人となりながら、テサロニケの人々に二通の手紙をしたためています。次のエフェゾからカイザリアへ行き、エルザレムを通ってアンチオキアへ帰りました。
c 54年から58年までに行なった第三回宣教旅行では、まず、すでに設立した教会を訪問し、3年間エフェゾに滞在し、マケドニアに行ってギリシヤに渡り、コリントに2ヵ月滞在し、さらにマケドニア、トロアデ、ミレト、カイザリアをへてエルザレムに帰りました。この第三回宣教旅行中、コリントの人々への二通の手紙とガラチアの人々への手紙、またローマの人々への手紙を書きました。
d 第四回宣教旅行は、直接ローマ皇帝の法廷に出るため、カイザリアからローマにむかう旅でありました。カイザリアで2年間監禁されたのち、ローマへ護送される途中難船に会い、マルタ島で命びろいをし、そこからローマに到着しました。ローマには2年間とどまり、63年に解放され、自由の身になりました。
そのころ、アジアの諸教会を見守りながら、ローマで宣教にたずさわるかたわら、エフェゾの人々、コロサイの人々、フィリッピの人々、フイレモンへの手紙を書いています。
とらわれから解放された後、彼はスペインおよびフランスにもおもむいたと言われています。それから再び東方にもどり、コロサイ、トロデア、ミレト、クレタをとおってマケドニアに帰りました。
ローマへ再び帰ったパウロが、どのようにすごしていたかは、ほとんどわかりません。66年、再び逮捕され、恐ろしい獄中生活を送ったのち、伝説によれば、67年6月29日、オスチア街道で首をはねられ、殉教したと伝えられています。
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ダマスコで回心するやいなや、パウロはすぐに説教を開始しました。
キリスト信者を捕らえるためにおもむきながら、かえって、キリスト信者になってしまったのです。
洗礼を受けたパウロは、熱心に、イエス・キリストを述べはじめましたが、人々が彼を殺そうとしましたので、城壁からつりおろされて、町をでなければなりませんでした。
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自分の使命のために、十年間の準備期間をすごしてから、パウロは、「急げ、エルサレムから出よ。人々は私についてのおまえの証明を受けない」「行け、私は遠く異邦人のもとにあなたを送る」というイエス・キリストのみ声を聞いたのです。
旅行中、パウロは福音奉仕者として、当然、福音によって生きることができるとわかっていたにもかかわらず、彼はそれをのぞまず、日中は説教し、毎夜。日々のかてを得るために、天幕製造のいやしい仕事に従事したのです。
彼に従った説教者たちについて、パウロは、コリントの人々に次のように言っています。「彼らはアブラハムの子孫か? 私は彼ら以上にそうだ。彼らはキリストのしもべか?私は彼ら以上にそうだ」。
「彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。28 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。30 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(Ⅱコリント11,22-30)
使徒行録によれば、イコニウム、リストラ、デルベン、フィリッピ、テサロニケ、エルサレム、ローマでの迫害と捕らわれの事実が明らかになりました。
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実際、何よりもまず、霊魂の救いは、イエス・キリストの犠牲とご死去のたまものですが、次に、司祭として、また広報機関を通して働く使徒として、司牧生活にたずさわる司祭の犠牲によるものです。自分の好みに合わせて便利な生活を送ることは、自分の聖性のためにも、人々の救いのためにも役立ちません。私たちの日々の生活には、普通、極端な困難はありませんので、勉学や使徒職、司牧にもっとはげむ必要があります。学校で教えること、編集すること、告白を聞くこと、説教をすること、その他、各自の任務や日々の義務の遂行にともなう困難、外的困難や内的苦しみなどがあります。
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小さな犠牲ですまそうとするなら、わずかな報いしか受けないでしょう。司祭は、ただ修道者であるだけではなく、より高いところにおかれ、より高い義務を負っています。もし自由があれば、より多くつくすよう、その自由を使わなければなりません。
苦労をさけようとする人は不幸です。人格をきずき、自分の召命とタレントに応じる人格をきずかなければなりません。
「私のあとに従いたいとなら、自分を捨て、自分の十字架をになって、私に従え」天国!聖パウロはコロサイの人々にあてて、キリストが、おのおのキリスト信者に対し、愛する者のためにその苦しみの一端をになうよう定めている、と書いています。
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。25 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。26 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。28 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 29 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」(コロサイ1,24-29 )
パウロ的生活とは、説教し、著述した私たちの師であり保護者である聖パウロの生き方に合致した生活であります。
私たちにとって最大の苦業は、司祭職と使徒職の二重の任務とともに、パウロ的生活を守ることです。日課、任務、司祭職、日々の勉学、共住生活、内的外的困難などは、功徳の宝をつむためにあります。
『キリストにならって』は、変わった苦業ではなく、普通ありきたりの苦業をするように教えています。自分自身をよく導くためには、想像、感情、五官をたえず治めなければなりません。
聖パウロは、ティモテオへの後の手紙に次のように書いています。
「私は選ばれた人々のために、すべてを耐えしのんでいます。それは彼らにも永遠の光栄とともに、イエス・キリストによる救いを得させたいからです」と。
「あなたは認められた者、はじるところのない働き人、真理のことばの正しい教師として、神のみ前にはげみなさい」。
自分自身については、「私が、そそぎのいけにえとして注がれ、帆をはって去るべき解きはもう近づきました。私は、よい戦いを戦い、走るべき道のりを走りつくし、信仰を守りました。すでに私のために正義の冠がそなえられています。かの日、正しい審判者である主は、それを私にくださるでしょう」と書いています。
聖パウロ会会員もまた、冠を受けるでしょう。
『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。