10月18日に、私たちは聖ルカの祝日を祝います。聖ルカの生涯について、私たちが知っていることはあまり多くありません。使徒パウロの弟子で、彼の宣教旅行に同行し、パウロが牢に入れられたときも彼のそばにいたであろうということぐらいです。しかし、ルカは聖書の中に収められている四つの福音書の一つを著し、私たちに残してくれました。「福音書」という書物を通して、私たちに神の救いのメッセージを告げ知らせてくれたのです。そこで、今回はルカによる福音書を読みながら、そこに描き出されているメッセージについて簡単に考えてみたいと思います。
ルカによる福音書は、よく「憐れみの福音書」と言われます。神の憐れみ深さ、特に弱い人や苦しんでいる人に対する憐れみを強調し、私たちもこの神の憐れみに倣うようにと招いているからです。このことは、マタイ福音書やマルコ福音書と比べても明らかです。15章に描かれている「憐れみの三つのたとえ」は言うまでもなく、ルカ福音書に出てくるイエスは、一人息子を亡くしたやもめの母親を見て「憐れに思い」死んだ息子を生き返らせ(7・11〜17)、イエスのことを知らないと言ったペトロに憐れみのまなざしを注ぎ(22・54〜62)、その一方で「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(6・36)と命じておられます。
さて、この「憐れみ」とか、「憐れに思う」という言葉は、「かわいそうに思う」とか、「同情する」といった単なる感情の動きを意味する言葉とは根本的に異なるものです。それは、内臓がねじ切れそうな痛みにさらされるという意味から派生した言葉で、居ても立ってもいられない状態、何かをしないではいられない状態を表します。憐れに思ったけれども、結局何もしなかった、ということはありえません。憐れに思った人は必ず何らかの行動を起こすはずなのです。これが、聖書に出てくる「憐れみ」や「憐れに思う」という言葉の意味です。
このことをもっとも明確に表しているのは、「善いサマリア人の話」でしょう(10・25〜37)。追いはぎに襲われて半殺しの状態にされた人を見ながらも、祭司とレビ人は道の反対側を通って行ってしまいます。その人を見ても憐れに思わなかったからです。しかし、サマリア人は「その人を見て憐れに思い」ます。つまり、近寄って傷の手当てをし、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行き、介抱します。そして、自分は旅立たなければならなかったため、宿屋の主人に金を渡し、この人を介抱するように頼んでから出発します。憐れに思った人は、自分がそのとき、その人のためにできる限りのことを行う、いや行わないではいられないのです。
他の箇所を見ても、同じことが言えます。一人息子を亡くしたやもめの母親を見て憐れに思ったイエスは、御父から与えられている権能を惜し気もなく使い、死んだ息子を生き返らせます(7・11〜17)。「放蕩息子のたとえ」の中で、帰って来た息子を見つけた父親は、「憐れに思い」、走り寄って息子を抱きしめ、いちばん良い服を着せ、肥えた子牛を屠り、祝宴を始めます(15・20〜24)。その人のために自分の力、持っているものを使い果たし、できる限りのことを行うこと、それが御父のように憐れみ深い者になることだと言えるでしょう。