ヤコブは、六歳でケラスコの小学校に入学した。ヤコブの家から学校までは約三キロメートル、静かな田舎道をヤコブは歩いて通学した。当時の小学校では朝三時間午後二時間の授業。昼食と休み時間の間に、ある生徒は校内の食堂で食事し、ある生徒は家に帰って昼食をとるが、運動場で遊んでいた。ヤコブの学級担任の先生は、ケラスコ出身のロジナ・カルドナ(Rosina Cardona)という女教師であったるアルベリオーネ神父が、この女教師について述べた所によると「カルドナ先生は、大変人柄がよく、神の真のバラであり、自分の務めを非常に細やかに果たし、……大変信心深く、自分の生徒が司祭になることを主にいつも祈り求めていた。」彼女は六〇歳で亡くなるまで、ずっと独身で教壇に立っていた。
ヤコブの学級には八〇人の生徒がいた。小学一年のある日、カルドナ先生は、生徒に将来の希望を聞いたが、アルベリオーネ神父は、その時の情況を自叙伝の中で、こう述べている。「先生は、八〇人の生徒のうち何名かに、将来何になりたいと考えているかをたずねた。彼(アルベリオーネ神父)は二番目にあてられたが、しばらく考えてから、照らされた思いで、きっぱりと答えた。『私は司祭になります』と、ほかの生徒は驚いた。先生は彼を激励し、何くれとなく彼を助けた。それは最初の明瞭な光であった。はじめのうち彼の心の奥底で漠然とではあるが、何かの傾きを感じていたものの、実際にはどうということもなかった。その日から同級生たちは、時には兄たちも『司祭』という名を彼につけ始めた。時には彼にふざけ半分で、時には彼に務めを思い出させるために、そう呼んだのである……」。
司祭になりたいという希望は、ヤコブの心にきわめて自然に芽生えたものであった。ヤコブは、とくに小学生のころから自分の教会の主任司祭ジョワンニ・バティスタ・モンテルシノ(Don Giovanni Battista Montersino 1842-1912)神父と親しくしていた。
アルベリオーネ神父の回想によると、その主任神父は「非常に活気があり、知恵と直感のすぐれた司祭であった。」ヤコブ少年は、この神父の話を聞き、その生活を見て、次第に自分の理想像をつくり上げていった。同級生がびっくりしたというのは、司祭志望がヤコブ一人だけであったことにもよるが、貧乏百姓の身分には釣り合わないと思ったからである。
ヤコブの決心が家族に伝わってからは、両親や兄弟たちもびっくりした。ヤコブは病弱だし、家は貧乏だし、司祭になるための長い勉強に耐えられるか、その学費を快く出せるかも心配であったろう。母のテレサはかねがね「私の子の中から一人でもよいから神さまにおささげします」という祈りをしていたものの、いざわが子が司祭になると言い出すと、いささか心配になった。しばしばヤコブに「でもね。ヤコブ、おまえは司祭になるかね?」と不安げにたずねるのであった。父や兄たちは、「ヤコブの希望はどうせ子供のでき心であろう。ワラがパッと燃えすぐ消えるように、時がたてば、その望みもなくなるだろう。小学生では司祭になるための苦しい勉強も修業も司祭生活の苦悩も何もわからないから、気安く司祭にあこがれるのだろう」ぐらいに考えていた。
ところがヤコブ少年は、それ以来本気になって司祭への道を歩み出したのである。すなわち自分の言葉遣い、態度、祈り、勉強、考え方、あそびなど、すべてを司祭という目標に向けて整えたのであった。
父も兄たちも畑で黙々と働き、ヤコブの学費をかせいだ。母は、これを知ってヤコブに、こう言いきかせた。「おまえが司祭になりたいならば、もっと徳の高い者になければならなりませんよ。もっと祈り、勉強、仕事にはげみ、兄さんたちの言うことに従いなさい」と。ヤコブも、このことをよく心に刻み、軽率な言動をつつしみ、勉強に、信心に、家の手伝いに全力を注いだ。
一八九五年の六月、五年制の小学校を終えて一一歳になったヤコブは、同年十月、ケラスコの公立中学校で小学校卒業の学力検定試験を受けて、その中学に入学することができた。中学第一学年を終えると、ケラスコの教会の主任司祭は、ヤコブにブラの神学校にはいることをすすめた。ヤコブもそれを望んだが、しかし父ミケレは、家からケラスコ中学に通学させながら、暇な時に畑仕事を手伝わせたかった。神学校に行けば、たまにしか家に帰らず、親の経済的負担もかなり大きかったからである。しかし、父ミケレは、主任司祭のたってのすすめと、ヤコブのひたむきな司祭希望に押されて、一八九六年十月二十五日、ヤコブを連れて、ブラの神学校を見に行った。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。