ケラスコのアルベリオーネ一家の住まいは、ごく貧しかった。古ぼけた石としっくいで築いた二階建てての百姓家で、一階は台所と寝室、二階は倉庫と寝室が半々になっていた。その家に隣接して牛小屋と干し草置場があった。家具といえば古ぼけたテーブルとたな、腰掛け、パン粉をねるはち、寝台など、みんな、そまつなものであった。この家では乳牛のほかに、ウサギ、ニワトリ、アヒルなどを飼っていた。朝食にはパンとチーズ、果物、タマネギ、ニンニクを食べ、昼食や夕食にはスープ、野菜の油あげ、ジャガイモ、キャベツ、ポレンタなどを食べていた。このポレンタは、トウモロコシを粉にして、それを煮てから柔らかいキビダンゴのようなものにしたのであるが、これは貧しい人の食べ物とされていた。そのほかの祝日には、アルバ地方独特の「バヤニヤ・カルダ」という食べ物が出された。まず鍋の中に牛乳とイワシとニンニクを入れた三○分ぐらい煮る。これを食卓に出す時も、すき焼き鍋のやり方と同じく、鍋の下にはたえず火を入れて置く。ぐつぐつ煮えているその汁を、ピーマンとかセロリーとかキャベツとかカブとかネギとか、そのシーズンの野菜にかけて食べるのである。時には、その汁を肉の上にかけて食べることもある。
ヤコブは、母親のつくってくれた、これらの食べ物を食べて成長し「おふくろの味」として生涯忘れることはなかったであろう。
父親のミケレは割り合いに背が高く、頭髪とひとみは黒く、口ひげをはやし、軍隊では手りゅう弾投げの名手として鳴らしたほどの頑強な人であった。口数が少なく、毎日のようにスキに牛を二頭か四頭つないで畑をたがやし、勤勉に一家の生活を支えていた。母のテレサは、なかなかのしっかりもので、料理、掃除、洗たくはもちろんのこと、糸をつむぎ、衣服をつくろい、畑仕事までしていた。それに、ロザリオと朝昼晩の祈りの先き読みをし、日曜、祭日には先に立って教会へ行った。
のちほどアルベリオーネ神父は、このころのことを回想して、こう述べている。「私の家族が敬けんなキリスト信者であったこと、信仰のあつい百姓、大の働き者であったことを、私は感謝します。この点については知人や近所の人の間でも評判でした。小さな子供たちも、神をおそれうやまいながら成長し、体力に応じて大小の仕事をしていました……。」
また、とくに母親については「質素な身だしなみの女性で、ただ次の三つのことができた。つまり祈ること、忍耐すること、子供の世話をすることである」としるしている。
ヤコブは小学・中学時代には、家に帰ると予習、復習の勉強もそこそこに、鶏に餌をやったり、畑に出て熊手で干し草をかき集めたりして、暗くなるまでこまめによく働いた。家の仕事には夏休みも冬休みもなかった。子供の多い一家の生計を支えるため、まさに「貧乏暇なし」である。ある日こんなことが起こった。
アルベリオーネ家は、土地が乾きすぎるとか、雨が降りすぎると、百姓たちは馬鍬が使えなくなるので、手間が何杯もかかるが、どうしてもまいた小麦の種に鍬で土をかぶせなければならない。アルベリオーネ家は、種まきがあまり遅れないため、秋の早朝の暗いうちからでもつらい仕事に取りかからねばならなかった。それで鍬で働ける人はみんな、ひとかたまりになってうすぐらがりの中でせっせと働いた。その間に幼いヤコブは小さな石油ランプを手にもって、かれらの前に立ち、鍬を入れている土地を照らしていた。かれらが前へ前へと鍬を入れてゆくと、ヤコブは疲れて眠くなり、知らず知らずのうちに、かんじんな所は照らさずに、ホタルみたいにあっちこっちふらつき回った。母のテレサは、父からきつい咎めを受けないようにと、ヤコブに向かって「Giacu,fa ciair!」(ピエモンテの方言で、“ヤコブ、照らしなさい”)としばしば繰り返し、ヤコブを呼び戻さざるをえなかった。
こうしてヤコブ少年のうちには、次第に強固な意志、困難をものともしない根性と、勤勉さがつくられていったるそれに伴って伝統的な宗教心が、家庭や教会、道端に散在するほこら、学校などを通して、幼い時からかれの心に植えつけられていった。
ちなみにこのピエモンテ地方は、聖ヨハネ・ボスコ、聖カファツソ、聖コットレンゴ、聖レオナルド・ムリアルドなど、多くの聖人を輩出した所である。大自然のそうした厳しい条件、伝統的に信心深い環境などが、おのずから偉大な魂を築き上げたともいえよう。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。