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これってどんな種?

傷は恵みという種 復活節第2主日(ヨハネ20・19〜31)

 私たちには、人に見せたくない【傷】があるのではないでしょうか。【傷】という言葉は、「古傷が痛む」とか「脛に傷(疵)を持つ」というように、人から触れらたくないものですし、隠したいものです。それでも、「私にはこのような【傷】を持っている。これも含めて『私だ』と」思って、自分の【傷】を受け入れるとき、新たな恵み、発見をいただくこともあるのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、「主の復活の日」の夕方にイエス様が弟子たちの所においでになった場面です。「主の復活の日」の朝には、マグダラのマリアの知らせを受けた、ペトロとイエスが愛していたもう1人の弟子(ヨハネ)が墓に走って行って、「空の墓」を見ました。その後、マグダラのマリアは、イエス様と出会い「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えます(ヨハネ20・11〜18参照)。弟子たちは、彼女が「わたしは主を見ました」という知らせを聞いてどのように思ったのでしょう。

 彼らは、「どうしてイエス様は自分たちよりも彼女に現れたのか」と思ったことでしょう。マルコ福音書では、マグダラのマリアが弟子たちの所に行ってイエス様に出会ったことを伝えても信じてもらえなかったことあります(マルコ16・9〜11参照)。復活の出来事で共通しているのは、最初に復活したイエス様に出会ったのが女性だったのです。このことは何か意味があるのかもしれません。

 きょうのみことばは、「その日、すなわち、週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちがいた場所の戸にはことごとく鍵をかけていた」という節から始まっています。弟子たちは、ペトロとヨハネ、そして、マグダラのマリアの話を聞いた後でもまだイエス様が本当に復活されたことを信じていなかったのでしょう。むしろ、ユダヤ人たちが自分たちを捕らえに来るのではないかと、心配し、恐れていたのです。

 この「戸にはことごとく鍵をかけていた」ということは、実際に「戸に鍵をかけた」ということもありますが、弟子たちの心に「鍵をかけた」ということとも取れるかもしれません。弟子たちは、イエス様と生活し、メシアだと信じていたにも関わらず、イエス様がユダヤ人たちから捕らえられると怖くなって逃げてしまいます。特に、ペトロは3度イエス様のことを「知らない」と言っているのです。彼らは、自分たちがイエス様を裏切ってしまったという、後ろめたい気持ちを持っていたことでしょう。そのような気持ちが彼らの心の戸に鍵をかけていたのでかもしれません。私たちも時折、自分自身が犯した罪(傷)によって、【心の戸】に鍵をかけてしまうことがあるのではないでしょうか。

 そのような時に、イエス様がおいでになられ、弟子たちの真ん中に立って「あなた方に平安があるように」と言われます。さらに、イエス様は、両手と脇腹とを弟子たちに見せられます。弟子たちは、イエス様のその傷跡を見て、本当にイエス様が復活されたことを信じて喜びます。イエス様は、まず、ご自分がお受けになった【傷】を弟子たちに見せられたのです。

 聖土曜日の教会の祈りの読書課で読まれる『偉大な聖土曜日のための古代の説教』の中に陰府の中にいるアダムに対して「木に手を伸ばして、罪を犯したあなたのために、木にしっかりと釘打たれたわたしの手を見よ。わたしは十字架の上で眠りに入り、剣で脇腹を差し抜かれた。それは楽園で眠り、わき腹からエバを生み出したあなたのためであった。わたしのわき腹の傷はあなたのわき腹の痛みをいやしたのだ。」という箇所があります。このアダムは、弟子たちのことだと言ってもいいですし、私たち自身のことでもあります。イエス様の手の傷、脇腹の傷は、私たちが犯した罪(傷)を贖って下さった傷痕とも言えるのではないでしょうか。

 さて、イエス様は、再び弟子たちに現れます。この時は、前回にいなかったトマスもいました。イエス様は、弟子たちの真ん中に立たれて「あなた方に平和があるように」と言われて、トマスに「あなたの指をここにあてて、わたしの手を調べなさい。あなたの手を伸ばして脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われます。このことは、トマスに対して叱責ではなく、ご自分が復活したこと気づかせるための言葉と言ってもいいでしょう。

 イエス様の【傷】は、ご自分が復活したことを知らせる【徴】でもあるのです。イエス様は、ご自分が受けた【傷】を隠されません。パウロは、自分の【傷(刺)】に対してイエス様から「お前はわたしの恵みで十分だ。弱さにおいてこそ、力は余すところなく発揮される。……むしろ大いに喜んで、わたしは自分の弱さを誇ることにします」(2コリント12・9)と言っています。

 私たちは、イエス様やパウロのように【傷】を隠すのではなく、むしろ【傷】を恵みとして受け入れ、復活されたイエス様との出会いを伝えていくことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 傷は恵みという種 復活節第2主日(ヨハネ20・19〜31)

  2. 信仰と愛の目という種 復活の主日(ヨハネ20・1〜20)

  3. 不条理な死の中にという種 受難の主日(ルカ23・1〜40)

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