いよいよ、聖週間が近づいてまいりました。
私たちは今、主イエスがたどられた十字架の道を共に歩みます。
それは、過去の物語ではなく、今も私たちの中で続いている道です。
痛みを負う者のうめき、拒絶された者の沈黙、愛を貫く者の選択――
そのすべてを、主はご自分の足で歩まれました。
この道行は、私たちの慰めのためのものではありません。
むしろ、私たちが目を背けてきた現実のただ中に、
神の愛がどのように注がれるかを、体験するためのものです。
どうか、主よ、
あなたのまなざしと沈黙と傷の意味を、
一歩一歩、私たちにも味わわせてください。
それでは、始めてまいりましょう。準備はよろしいですか?
【第一留】イエス、死刑の宣告を受けられる
イエスは、明らかな理不尽のただ中で黙しておられました。もともと「真理」である方が、不正に満ちた権力構造の前に取り囲まれ、声を上げても届かない現実を味わい尽くしているかのようです。その姿には、現代社会の不条理に息を詰まらせる私たちの姿が重なります。職場や家庭、あるいはSNSの世界でさえ、どんなに訴えても相手が聞く耳を持たず、言葉を尽くしても空虚に弾かれてしまうときがあります。そんな無力感の中に、イエスは進んで降りてこられたのです。
沈黙はしばしば「敗北」として捉えられますが、神はこの沈黙を通じて人間の行き場のない叫びに寄り添ってくださいます。声にならない苦しみが、神の耳に確実に届いている。イエスがあの場で黙されていたからこそ、私たちも「語れない苦しみ」を祈りへと置き換えることができるのです。真理の沈黙は不正に屈服したのではなく、人間の最も孤独な部分へ神ご自身が入り込むための入り口になりました。
「信仰とは、『沈黙の中でも神は働いておられる』と信じる力です。」
【第二留】イエス、十字架を担われる
「自分の十字架を背負ってついて来い」と言われるこの言葉が、一種のスローガンや比喩ではなく、現実に重い木の十字架を背負うイエスの姿によって裏付けられています。神ご自身が実際に“重荷”を担われるという出来事が、苦難を単なる負担や罰ではなく、“救いの道”として示したのです。人は誰しも、人生のどこかで重く感じる課題を担います。将来への不安、家庭や仕事の問題、人間関係の行き詰まり……それらに耐えるだけでも精いっぱいになりがちです。
しかしイエスは、苦難に押し潰されるのではなく“担う”ことを選びとりました。担うとは、「自力で踏ん張る」のではなく、「神と共に重さを分かち合う」ことでもあります。神が人の苦しみに寄り添い、しかも先頭に立ってそれを背負ってくださったからこそ、私たちも重荷を「絶望」と見なさず、祈りや信頼のうちに進むことができるのです。
「担うとは、ひとりではないことを知ること。」
【第三留】イエス、初めて倒れられる
神であるイエスが地面に倒れるという衝撃的な場面は、「神は強くて決してつまずかない」という先入観を粉々にします。神が倒れる、それは私たちが抱える弱さや失敗にも神が寄り添っていることの究極の証です。仕事でのミスや人間関係のトラブル、あるいは立ち直りたいのにやめられない悪習……そうした“倒れる瞬間”を経験すると、人は「これで終わりだ」と感じがちです。
けれどもイエスが示したのは、倒れた場所が終着点ではなく、もう一度立ち上がるための“始まり”になり得るという希望です。倒れることは全てを失うことではなく、むしろ「そこにいていいんだ、神はここにもいてくださる」という不思議な救いの実感を芽生えさせます。倒れたところこそ、神が手を差し伸べる“再スタートの地点”なのです。
「倒れた場所こそ、再出発の聖地になるのです。」
【第四留】イエス、母マリアと出会われる
母マリアとイエスが見つめ合うこの静かな場面には、喧噪や絶叫は一切ありません。ただ深い眼差しと、痛みを共有する沈黙があるだけです。多くの人は「愛=言葉」と考えがちですが、沈黙のうちにこそ通い合う愛があります。思わず逃げ出したくなるような苦しみの現場に最後まで立ち会う姿は、真の連帯の輝きです。
マリアがここで示してくれたのは「何も言わないで寄り添う」という愛のかたちでした。私たちは、ともすれば大切な人を説得したり、励ましたり、“何か”をしてあげなければと思い込むことがありますが、時には言葉を尽くさずとも、そばにいるだけで十分なことがあるのです。沈黙は逃げではなく、痛みの奥行きを尊重し、そこへ共に沈んでいく行為です。
「沈黙は、最も深い愛のことば。」
【第五留】シモン、十字架を担う
シモンは、思いがけずローマ兵に強制されてイエスの十字架を担うはめになりました。望んでいたわけでもない十字架を背負わされるシーンは、人生の不条理を映し出しているかのようです。世の中には、避けようのない負担や、押し付けられた責務があって、私たちも「なんで自分だけ」と思うことがあります。しかし、神の視点に立てば、偶然や不運としか思えない出来事が、思いがけず大切な使命や恵みの入口へと変わることがあるのです。
嫌々ながら従っていたはずの苦労が、ふと振り返ると魂の成長や周囲への愛へとつながっていた。回り道と思えた道こそが、神の計画を実現するための正面ルートだった……そうした逆説が、しばしば私たちを驚かせます。シモンの姿は、不本意に背負わされた十字架が、実は神との出会いの場になる可能性を体現しているのです。
「祝福は、時に回り道をして訪れる。」
【第六留】ヴェロニカ、イエスの御顔を拭う
ヴェロニカは大それたことをしたわけではありません。たった一枚の布で、血と汗にまみれたイエスの顔を拭いただけです。けれども、その行為には本物の愛が詰まっていました。人々が恐れや恥ずかしさ、あるいは無関心のゆえにイエスを避ける中、ヴェロニカは正面から近づき、痛みを負う主に手を差し伸べたのです。
こうした小さな思いやりの行為は、大きな奇跡を起こす派手な行為よりも、ずっと神の心を打ちます。社会や職場でも目立たないけれど重要な配慮があります。誰にも気づかれなくても、神はそうした細やかな愛を見つめておられます。たとえ歴史書に名が残らなくとも、天の書にはその愛が刻まれるということでしょう。
「神は、目立つ善ではなく、見過ごされがちな愛に目を留めておられます。」
【第七留】イエス、再び倒れられる
二度目に倒れるイエスは、人からますます嘲笑され、見捨てられたようにも見えます。人間関係でも、信頼していた人に裏切られたり、孤立してしまったりするとき、私たちは深く傷つき、自分まで見捨てそうになることがあります。この場面は、「神ですらその痛みを通られた」という衝撃的な事実を前に、もう一度“信仰とは何か”を考えさせてくれます。
信仰は、勝ち負けの世界でいう「負けない力」ではなく、「倒れても見捨てられない」という絶対的な安心を与える関係です。人から見捨てられたように感じる場所こそ、神が実はもっとも近く、地面に身を投げ出したあなたに寄り添い、支えようとしておられる場。祈りとともにこの事実を受け止めるとき、失意の底が“神との再会”の場所になるのです。
「見捨てられたと思う場所で、神はもっとも近くにおられるのです。」
【第八留】イエス、エルサレムの婦人たちに語られる
イエスは、婦人たちの涙をただの哀れみのまなざしとしては受け止めず、むしろ「自分と子どもたちのために泣け」と叫びます。悲惨な光景を見て嘆くこと自体は自然な感情ですが、その涙が単なる同情や悲嘆で終わるのではなく、悔い改めや新しい行動につながるかどうかが、ここで問われています。
わたしたちも時に、誰かの不幸を見て涙を流しますが、本当の悔い改めや自分の生き方を変えるきっかけとして活かしているでしょうか。感情は大切ですが、それだけでは人の生き方は根本的に変わらないのです。イエスの言葉は厳しくとも、愛の警鐘でもあります。“真実の涙”は、わたしたちを根っこから洗い、新たな方向へと生き直す力を生み出します。
「悔いの涙は、やがて新しい人生を育てる“洗礼の水”になるのです。」
【第九留】イエス、三度目に倒れられる
三度目の転倒は、「同じ失敗を繰り返す人間の姿」を象徴しているようにも見えます。弱いとわかっていても同じ過ちに陥り、立ち直ったと思えばまた転ぶ――その繰り返しに嫌気がさすことがあるでしょう。けれどもイエスは、そんな絶望の深みにまで、ご自分の身体を投げ出してくださったのです。
私たちは、失敗の回数を重ねるほどに、「もう終わりだ」と自分に見切りをつけがちです。しかし神は、転倒の数を積算して罰する方ではありません。悔い改め、立ち上がる可能性を与え続ける無限の憐れみを持っています。だからこそ、何度失敗しても祈りと悔い改めへの道が閉ざされることはないのです。
「神は、失敗の回数ではなく、悔い改めの回数を数えておられます。」
【第十留】イエス、衣をはがされる
十字架に架けられる直前、イエスは人間の尊厳を守る最後の衣をはぎ取られました。これは、外面的な評価や世間体、地位や名誉など、人が最後までしがみつきたくなる“プライド”を奪われる瞬間でもあります。世界の真理そのものである神が、自らの尊厳を裸にさらし、人間の最も惨めな状態にまで降りて来られた――その事実は、私たちに何を突きつけるのでしょう。
結局のところ、神の目に映る私たちの価値とは、「何かを成し遂げているか」「どれだけ優れているか」ということで左右されません。剥ぎ取られて何もない“本当の自分”であっても、神はそこを愛し抜いています。むしろ私たちは、最後の衣まではがされてようやく、自分でも見えていなかった“裸のままの尊厳”に気づくのかもしれません。
「剥ぎ取られたその奥に、真の尊厳がある。」
【第十一留】イエス、十字架に釘づけられる
イエスは十字架の木に釘づけにされ、もはや身動きできないほど無力な姿になりました。神が人間的な意味で「最も行動不能」な状態に陥ったのは矛盾の極みとも言えますが、その無力の極限でこそ、神の愛の全能が示されたのです。何もできなくなったとき、人は自分の無力を突きつけられます。しかし神は、その状態を「だからこそ、すべてをゆだねるチャンス」だと教えてくださいます。
病気で寝たきりになった人、困窮から抜け出せずもがいている人、どう頑張っても好転しない現実に手も足も出ない人。そんなとき、わたしたちは釘づけにされたイエスと同じく、一見「何も為せない」姿であるように思えます。しかし、十字架の上でイエスは世界を救い、愛を放射しておられました。手足が動かなくても、神の愛は人の祈りや隣人への共感を通して広がっていくのです。
「愛とは、力を失ってもなお手放さない関係のこと。」
【第十二留】イエス、十字架の上で息を引き取られる
イエスは十字架上で最後の息を吐き出し、「成し遂げられた」と言い残します。死という人間の最大の恐怖が、ここで神の愛の最高潮に変えられました。愛する者を失う恐れ、自分自身が死へ近づく不安――それらは、私たちが最も避けたい苦しみかもしれません。しかし神は、その絶望の渦中へと身を置き、死をただの終わりではなく“愛が証明される場”として塗り替えたのです。
この留が示すのは、死が「無」の入り口ではなく、神の愛の到達点であり、新しい生命へつながる“通路”だというメッセージです。日々の中で小さな“死”のような挫折や別離を経験するときも、その先には神が既に通り抜けた希望の扉があります。イエスが死を通して完成させたものは、「何があっても愛が負けない」という救いの大宣言でした。
「死は終わりではなく、愛が証明される場所である。」
【第十三留】イエス、十字架から降ろされ、母マリアの腕に抱かれる
処刑を終えたイエスの遺体は、母マリアの腕に抱かれます。ここには雄々しい言葉も、奇跡のイメージもなく、あるのは母と子の静かな一体感だけです。しかし、その沈黙のうちには人類の罪がすべて集められ、マリアの愛が深く抱え込んでいるようにも思えます。逃げずにそばにいるマリアの姿は、“赦しと受容”の究極的なアイコンです。
私たちも、ときに現実を受けとめきれず、罪や失敗の重みに沈みそうになります。けれどマリアの腕は、イエスだけでなく、私たちの痛みをも受けとめる大きさを象徴しています。罪の重さに沈むよりも、赦しの深さに浸るとき、心は新しい成長へと開かれていくのです。神が許しているのに、自分で自分を裁き続けているならば、その視線をマリアに合わせてみる必要があるかもしれません。
「罪の重さに沈むのでなく、赦しの深さに包まれる――それが信仰の成熟です。」
【第十四留】イエス、墓に葬られる
イエスの亡骸は墓へと葬られ、巨大な石が入り口を塞ぎます。表面的には「静寂と終焉」です。人の目には、ここで物語がすべて閉じてしまったように見えるでしょう。しかし実際は、種が土に埋まるように、復活へ向けた準備が密やかに始まっています。神は、沈黙のときや暗闇のときこそ深く働いておられるのです。
私たちの人生にも、“墓”のような閉塞感に覆われるシーズンがあります。祈っても何も起こらない、むしろ状況がさらに悪化するように見える――そんなときにこそ、神の手は目に見えない土の下で種を芽吹かせています。表面的に何も動かない時間が、実は最も大事な“発酵”の期間だと信じられるなら、希望の芽がやがて地表に顔を出し、新しいステージへと私たちを導くでしょう。
「土の中の静けさこそ、復活の準備室。」
【第十五留】イエスの復活を待ち望むマリア
まだ夜は明けておらず、イエスの復活は目に見えない。しかしマリアは、確かに信じて待ち望んでいました。彼女の中には、受胎告知のときから芽生え続ける“神を受けとめる器”があったからです。見えていないのに確信しているという姿勢は、まさに「信仰の母」と呼ばれるゆえんかもしれません。
人の目には根拠がないように見えても、神の言葉を信じ続けること――そのとき、復活はすでに私たちの心で始まっています。夜明けを待つ暗い時間が、やがて光へとつながるのだと信じられる人は、復活の恩恵に他者より先に気づくことができるでしょう。マリアのように「まだ実現を見なくても信じる」姿勢を持つとき、私たちの人生の中でも一足早く光が注がれ始めます。
「復活は、信じる者の魂に最初に訪れる。」