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みことばの響き

わたしを思い出してください 受難の主日(ルカ23・1~49)

 受難の主日にはいつも、イエスの受難の朗読がなされます。それぞれの福音記者に味わいがありますが、ルカ福音書の場合にはとても写実的です。この中で二人の盗賊がイエスと共に十字架につけられます。一人は不平不満を語り、もう一人は心から回心していきます。長い朗読の中で、この場面にスポットを当ててみましょう。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人がイエスをののしって「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(ルカ23・39)と語ります。「メシア」は原文のギリシア語では「クリストス」、つまり「キリスト」が使われ、「油注がれた者」「王」「大祭司」「預言者」といった意味が込められています。イエスを「メシア」として見ているものの「ののしって」います。これに似たような表現に、議員たちは「あざ笑い」(ルカ23・39)、兵士たちは「侮辱した」(ルカ23・36)とあります。十字架上でイエスが受ける苦しみはどのようなものだったのでしょうか。身体的な苦痛、ユダの裏切り、弟子たちが恐さの余り立ち去り、イエスが孤独に陥っている状況だけでなく、こうした侮辱的な苦痛もありました。犯罪人の「ののしる」は、ギリシア語で「ブラスフェメオー」が使われ、それは「冒涜」を意味するようなものです。このことから、十字架を担ったイエス、十字架上のイエスの苦しみがどのようなものだったかが想像できるでしょう。

 それとは裏腹にもう一人の犯罪人はイエスの本当の姿に気づき、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23・42)と語ります。彼が語る「御国においでになるとき」は、「主の祈り」の中の「あなたの国が来ますように」(ルカ11・4)を思い起こします。面白いことに、最初の犯罪人はイエスに対して「メシア(キリスト)」を使っていますが、十字架上の姿に救い主を感じていません。一方、後者の犯罪人は「イエス」を使って、親しみを込めて語っています。しかも「メシア(キリスト)」という言葉を使いませんが、十字架上のイエスの姿に、真の救い主を感じています。

 こうした二人の盗賊の姿に、私たちの信仰の在り方を問いかけてくれます。

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