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これってどんな種?

不条理な死の中にという種 受難の主日(ルカ23・1〜40)

 「不条理」という言葉があります。私たちの人生の中で何らかの【不条理】を感じたことはあるでしょうが、最もひどい【不条理】な扱いを受けられたのは、イエス様ではないでしょうか。私たちは、イエス様の【受難】を黙想し、その後で迎える【復活】の喜びを味わうことができたらいいですね。

 きょうのみことばはイエス様の「ご受難」の場面です。きょうのみことばは「そこで、全議員は立ち上がって、イエスをピラトのもとへ連れて行った。」という節から始まっています。当時のユダヤ人たちは、人を死刑にする権限をローマから奪われていたためピラトの所にイエス様を連れて行ったのです。

 ピラトは、最初からイエス様が無罪の罪で捕らえられていることを知っていましたが、彼らの訴えの中で「……自分こそ王であるメシアだと主張しているのを確かめました」と言うことに反応し、「お前はユダヤ人の王か」とイエス様に質問します。イエス様は、その問いに「それは、あなたが言っていることです」とお答えになられます。もし、イエス様が「わたしは王だ」と言われれば、ローマに対する政治的な罪として、刑を与えることができるのです。しかし、イエス様のどちらともつかないような答えでは、はっきり罪と認めることができません。

 ピラトは、祭司長たちや群衆に「わたしはこの男に何の罪も認めない」と言って彼らの訴えを退け、ユダヤ人たちに対して【3度】もイエス様の無罪を主張します。しかし、ピラトは、ユダヤ人たちがあくまで十字架につけるように主張するため、イエス様をユダヤ人たちに引き渡し、【思うままに】させます。どうして、ピラトはユダヤ人たちの主張に折れたのでしょうか。もしかしたら、ピラトが【自分の力(権力)】だけに頼っていたからなのかもしれません。

 イエス様は、ご自分が十字架上で死に至るまで自分を弁護する言葉を発せられませんでした。ただ、ピラトに対して「それは、あなたが言っていることです」と言われただけでした。きょうのみことばの中でイエス様と関わった人たちがいます。最初は、ピラトですが、彼はユダヤ人たちに対してイエス様の無罪を訴えた人です。次にキレネ人のシモンです。彼がなぜエルサレムに来たのかはわかりませんが、たまたまイエス様が「髑髏(されこうべ)」へ向かわれている所に居合わせたのでしょう。

 シモンは、イエス様がそれまで担がれていた十字架を担う羽目になって何を感じたのでしょうか。シモンは、十字架に染みたイエス様の血や汗が彼の服に染み込んできたことを感じたかもしれません。みことばの中では、彼とイエス様との会話はありませんが、何かしらイエス様と対話があったことでしょう。もしかしたら、シモンはイエス様のことを伝える弟子になったかもしれません。

 次に、イエス様のことを嘆き悲しむ女性たちがいます。彼女たちは、イエス様の教えを聞き、また、癒された人たちではいでしょうか。イエス様は、ご自分も辛いのに「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣かなくてもよい。」と言われて彼女たちを慰めます。イエス様は、この苦しい、辛い中でも彼女たちに対してアガペの愛を注がれます。

 イエス様は「髑髏」と呼ばれている所に着くと兵士たちによって十字架につけられます。イエス様は、そうした兵士たちに対しても「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」と言われます。私たちも時折、「なぜ、あんなことをしてしまったのか」と後悔することもあるでしょう。イエス様は、そのような私たちに対してアガペの愛で赦しをくださいます。

 ルカ福音書では、イエス様と一緒に処刑される犯罪人に「……今日、あなたは私とともに楽園にいる」と言われる場面があります。イエス様は、罪を犯して刑を受けている人に対して、このアガペの言葉をかけられます。彼は、このイエス様の言葉によって【救い】を感じたことでしょう。

 イエス様は、ご自分の死が近づいたことを感じられ、おん父に「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」と言われて息を引き取られます。イエス様は、おん父からこの世に【人】として遣わされ、死に至るまでおん父のみ旨に従われます。それは、おん父へのアガペの愛であり、私たちへの愛なのです。イエス様は、おん父に霊を委ねられ、再びおん父と一体になれ、私たちを贖ってくださるのです。

 イエス様の愛は、それだけではなく百人隊長に「まことに、この方は正しい人だった」と言わせ、見物に来た人たちに対しても深い影響を与えられます。パウロは、「すべての舌は『イエス・キリストは主である』と表明し、父である神の栄光を輝かせているのです。」(フィリピ2・14)と言っています。パウロは、私たちがイエス様のことを【主】であると伝えるとき、みことばを伝えるとき、おん父の栄光を輝かせることになると言っているのです。

 私たちは、イエス様の不条理な【受難】を通してその中で起こるイエス様のアガペの愛を感じ、周りの人に対して分かち合うことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 不条理な死の中にという種 受難の主日(ルカ23・1〜40)

  2. 振り返る「時」という種 四旬節第5主日(ヨハネ8・1〜11)

  3. 霊的祝宴という種 四旬節第4主日(ルカ15・1〜3、11〜32)

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