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これってどんな種?

霊的祝宴という種 四旬節第4主日(ルカ15・1〜3、11〜32)

 この季節は、「桜の開花宣言」があり、いよいよ「春満開」、「お花見シーズン」という言葉が似合う時期ではないでしょうか。桜の木に薄ピンクの花が咲き、木全体が薄ピンクで包まれる光景は、私たちを和ませ、癒してくれます。そして、この時期の桜は、樹液も「ピンク」になって私たちが目にする「薄ピンク」の花を咲かせるそうです。桜は、秋に葉が落ち、冬にはゴツゴツとした樹木だけになって決して美しいとは言えませんが、この春の桜は輝いてみえます。

 私たちは、時々【荒み】の中を歩むことがあり、自分の力だけではどうしようもできない【時】に陥ることがあります。しかし、その辛くて苦しい【時】を経ておん父との【霊的癒し】を得ることができるのです。私たちは、桜が秋や冬を経て満開の花を咲かすように、【霊的癒し】を迎えることができたらいいですね。

 きょうのみことばは、『放蕩息子』の喩えの場面です。みことばは「さて、徴税人や罪人たちがみな話を聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた。」という節から始まっています。徴税人はユダヤ人から税金を徴収し、しかも正規の値段より多く取って自分の財産とし、残りをローマ人に渡していました。そのため、同胞のユダヤ人たちから軽蔑され、【罪人】というレッテルを貼られていました。また、【罪人】と言われる人たちは、何らかの事情で律法を守ることができない人、自分の弱さに溺れてしまった人、中には、犯罪に手をつけていた人もいたかもいたかもしれません。そのような人たちが、自分の生活を振り返り、「今のままではダメだ。何とかしておん父との生活に戻りたい」と思ってイエス様のもとを訪ね、話を聞こうとして集まって来たのです。

 イエス様は、彼らを喜んで迎え、話をし、食事を共にされます。しかし、それを見ていたファリサイ派の人たちや律法学者たちは、「この人は罪人を受け入れて、食事をともにしている」とつぶやきます。イエス様は、徴税人や罪人たちがどのような気持ちで集まってきたか、長い苦しみの中から【光】を求めてきたか、ということを痛いほど感じられ、彼らを迎え入れたのです。イエス様は、彼らとともに食事をし、彼らのこれまでの話をお聞きになられ、同じような苦しみを持った人たちとの分かち合いの場をつくられたのでした。

 しかし、ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、徴税人や罪人の心の思い、苦しさを拭い去りたい、もっとまともな生活をしたい、という内面の苦しみを理解できず、彼らを忌み嫌い、律法の立場から彼らを裁いていました。そのような罪人が、イエス様の所に集い、喜びに変わっていく様を見て、「……食事をともにしている」とつぶやいたのです。残念ながらファリサイ派の人たちや律法学者たちは、自分たちこそが正しい生活をしていると思い、人々を外見だけで判断し、罪人と言われる人を蔑すみ裁いていたのです。

 イエス様は、「『ある人に2人の息子があった。』……」と喩え話を始められます。私たちは、この「ある人」がおん父であることを知っていますし、息子の1人は放蕩に身を持ち崩した弟、1人は父親のもとにとどまった兄、ということを知っています。その中で私たちは、「私は、この中のどのタイプなのだろう」と思うのではないでしょうか。

 弟は、父に向かって「お父さん、わたしがもらうはずの財産をください」と言います。父は、弟の願いを聞き入れ、【2人】に資産を分け与えます。この時の父親の気持ちは、辛かったことでしょう。それでも、息子たちを愛しているから、【2人】に分け与えたのでしょう。弟は、もらった財産をまとめて遠い国に旅立ち、放蕩に身を持ち崩し、財産をすべて使い果たします。そのような時に、飢饉が起こり彼は食べる物に困って死にかけます。

 彼は、そこでようやく「本心に立ち返って、『父の所では、あんなに……』」と思い、父親の所に戻る決心をします。父親は、戻ってきた息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、「食事をして祝おう。この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と言って祝宴を開きます。父親は、【荒み】の苦しい【時】を経て自分の所に戻って来た【息子】をアガペの愛で迎え入れます。

 いっぽう、兄はこの祝宴を見て怒り、家に入ろうとしませんでした。兄は、父親に「わたしは長年お父さんに仕え、一度も言いつけに背いたことはありません……」と言います。この兄にとって父親は【仕える】人だったし、言いつけ(律法)を守ることで父との関係を保っていたのです。このことも、父親にとっては、悲しいことではなかったでしょうか。父親は、再び「弟は死んでいたのに……」と言って諭します。

 私たちは、時々起こる【荒み】の【時】を経ながらそれに【気づき】再びおん父の所に立ち返って【祝宴(霊的慰め)】をともに分かち合うことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 霊的祝宴という種 四旬節第4主日(ルカ15・1〜3、11〜32)

  2. 悔い改めの実という種 四旬節第3主日(ルカ13・1〜9)

  3. 彼に聞けという種 四旬節第2主日(ルカ9・28b〜36)

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