今日の箇所は「放蕩息子」のたとえとしてとても有名な箇所です。この表現から、息子にスポットが当てられていますが、実際には父の憐れみに重要なポイントがあります。
たとえの内容を振り返ってみましょう。兄と弟を比べると、兄は父のもとで奉仕し、とても模範的です。弟は兄とは対照的に財産を分けてもらい、「遠い国に旅立ち」ます。「遠い」はギリシア語で「マクラン」が使われ、単に遠いだけではなく、かなり離れている意味合いがあります。やがて弟は財産を使い果たし、その地方にものすごい大飢饉が起こり、「豚の食べるいなご豆」を食べてでも必死に生きようとします。豚はユダヤ教徒にとって汚れたものとして一切口にしません。やがて弟は我に返り、反省します。お父さんと一緒にいた時のことを思い出し、お父さんの愛情が自分の中にひしひしと蘇ってきたのでしょう。お父さんの愛情に気づいて、弟は回心していきます。
そんなお父さんは「まだ遠くにいたのに」息子(弟)に気づきます。「遠くに」はギリシア語で「マクラン」が使われ、どんなに距離があっても息子のことを思いやるお父さんの愛情、親心が表現されています。このことから息子の回心の前提は、お父さんの愛情からきます。お父さんが息子に対して「憐れに思う」心はまさに、そのことを表しています。「憐れに思う」はよく使われる「憐れみ」(エレオス)ではなく、「内臓」「はらわた」に由来する「スプラングニゾマイ」が使われ、弱い者に対する同情や愛情の意味があります。
一方、兄には「プレスビュテロス」が使われ、これは「長老」とも訳されたりします。自分を偉い立場に置き、弟についてはとても厳しくせまります。兄弟なのに「あなたのあの息子」と、あかの他人のようです。また「娼婦どもといっしょにあなたの身上をつぶした」と、ありもしない罪を加えていきます。兄には人を裁く心が深く根付いていました。
お父さんの愛情と兄の裁く心はとても対照的です。どんなに心が遠くに離れていても、また冷めた態度を兄のような心を持っていても、いつも心に留め、憐れんでくださる父なる神の愛情とふところの広さを痛感します。