マタイ5・17–19
13 ちょうどこの日、二人の弟子がエルサレムから六十スタディオンほど離れたエマオという村へ向かって歩いていた。14 二人は、これらのすべての出来事について語り合っていた。15 二人が話し合いながら歩いていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスであることに気づかなかった。17 イエスは二人に、「歩きながら、語り合っているその話は何のことですか」と仰せになった。そこで、二人は暗い顔をして立ち止まった。18 そして、その一人、クレオパという者が答えて、「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけご存じないのですか」と言った。19 イエスが「どんなことですか」と尋ねになると、二人は「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにおいても言葉においても、力ある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長や議員たちが、この方を死刑にするために引き渡し、十字架につけてしまいました。21 イスラエルを解放してくださるのはこの方だと、わたしたちは望みをかけていました。これらのことが、しかし、起こってから、もう三日目になります。22 ところが、仲間の間の数人の婦人たちが、わたしたちを驚かせました。というのも、彼女たちは朝早く墓に行きました。23 イエススの遺体を見つけられないまま帰ってきて、み使いたちの幻が現れて、イエスは生きておられると告げたと、いうのです。24 そこで、わたしたちの何人かが墓に行ってみましたが、婦人たちが言ったとおり、方は見あたりませんでした」と言った。 25 そこで、イエスは彼らに仰せになった。「物分かりが悪く、預言者たちが語ったことのすべてを信じない者たち。26 メシアは必ずこのような苦しみを受け、その栄光に入るはずではなかったか」。27 モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたって、ご自分について書かれていることを、二人に説明された。 28 やがて、彼らは目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へいかれそうな様子だった。29 そこで、二人はイエスを引きとめようとして、「一緒に泊まってください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言った。イエスは彼らとともに泊まるために、中に入られた。30 そして、食卓にともに着くと、イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂き、二人にお渡しになった。31 すると、二人の目は開かれ、イエスであることに気づいた。が、その姿は見えなくなった。32 二人は「あの時、道々わたしたちに話しかけ、聖書を説き明かされたとき、わたしたちの心は内で燃えていたではないか」と語り合った。33 そして、時を移さず出発してエルサレムに引き返してみると、十一人の弟子とその仲間が集まっていて、34 「主は本当に復活して、シモンに現れになった」と話していた。35 そこで、この二人も、旅の途中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスであることに気づいた次第を語った。
分析
ルカによる福音書24章13-35節は、復活したイエスが二人の弟子に現れる「エマオ途上」の物語です。この場面は、失望と悲しみに満ちた弟子たちが、復活の主と出会い、心を新たにしてエルサレムへ戻るまでの過程を描いています。イエスは、見えない形で彼らに寄り添い、聖書を解き明かし、最後にパンを裂くことで自身を明かされました。
二人の弟子は、エルサレムでの出来事に深く失望しながら、エマオへ向かっていました。彼らは「ナザレのイエス」について語り、「イスラエルを解放してくださると望みをかけていた」と述べています。この言葉から、彼らがイエスに対して持っていた期待が政治的・民族的な救済に偏っていたことがわかります。しかし、十字架の死という現実が、その希望を打ち砕いたように見えました。
そこへ、イエスご自身が近づき、一緒に歩き始められます。しかし、「二人の目は遮られていて、イエスであることに気づかなかった」と記されています。これは単なる肉体的な盲目ではなく、彼らの信仰的な目が開かれていなかったことを象徴しています。イエスは彼らの心を開くために、聖書を用いてメシアの苦難と栄光について説明されました。
彼らは、イエスがまだ誰なのか気づいていませんでしたが、その話を聞くうちに「心が燃えていた」と後に振り返ります。これは、神の言葉が心を照らし、信仰を新たにする力を持っていることを示しています。そして、夕方になると、イエスは彼らの招きを受けて共に泊まり、「パンを裂く」ことで彼らの目を開かせました。この「パンを裂く」行為は、最後の晩餐を想起させるものであり、聖餐と深い関わりを持っています。ここで初めて、彼らはイエスであることに気づきます。
目が開かれた瞬間、イエスの姿は消えましたが、彼らの心には確信が生まれていました。そして、夜にもかかわらずすぐにエルサレムへ戻り、他の弟子たちと復活の証しを分かち合いました。この行動は、復活の主との出会いが人の生き方を根本的に変える力を持つことを象徴しています。
神学的ポイント
1. 復活の主は共に歩まれる
イエスは、弟子たちが失望と疑問を抱えているときにそばに来られました。しかし、彼らはすぐには気づきませんでした。これは、私たちの信仰生活においても、神が私たちと共におられることに気づかずに歩んでいることがあることを示しています。復活のキリストは、私たちの日常の歩みの中で、気づかないうちに寄り添っておられるのです。
2. 聖書の言葉が心を燃え立たせる
イエスは、モーセや預言者たちの言葉を用いて、メシアが苦しみを受け、栄光に入ることの必然性を説明されました。このことは、聖書が神の計画を示すものであり、信仰を深める力を持っていることを教えています。神の言葉を学び、黙想することで、私たちの心もまた「燃える」経験をするのです。
3. パンを裂くことによる啓示
弟子たちは、イエスがパンを裂いた瞬間にその正体を悟りました。この行為は、イエスの本質的な自己表現であり、最後の晩餐の記憶を呼び起こすものです。私たちもまた、聖餐を通してキリストの臨在を体験し、霊的な目が開かれるのです。
4. 復活の証人としての使命
イエスに出会った二人の弟子は、すぐにエルサレムへ引き返しました。これは、復活を体験した者がそれを隠しておくことはできず、他者に伝えずにはいられないということを示しています。信仰とは、個人の内面にとどまるものではなく、証しを通して広がっていくものなのです。
講話
この福音箇所は、信仰における「気づき」と「応答」のプロセスを示しています。弟子たちは、イエスを知っていたにもかかわらず、その復活の姿をすぐには認識できませんでした。しかし、神の言葉に耳を傾ける中で、心に変化が起こりました。
私たちも、信仰の旅路において、エマオへ向かう弟子たちと同じように、失望や疑問を抱くことがあります。人生の困難や苦しみの中で、神が遠く感じられることもあるでしょう。しかし、そのような時にこそ、イエスは私たちのそばにいてくださり、聖書を通して語りかけておられるのです。
「心が燃えていたではないか」という弟子たちの言葉は、私たちの霊的体験とも重なります。神の言葉を聞き、それを深く理解することで、私たちの信仰は新たな力を得ます。そして、その力を受け取ると、私たちは行動へと導かれます。弟子たちは、暗闇の中でもすぐにエルサレムへ戻りました。それは、復活の喜びを他の人々と分かち合いたいという衝動が抑えきれなかったからです。
私たちの信仰もまた、単なる知識ではなく、実際の行動へとつながるべきものです。神の言葉に耳を傾け、心が燃やされるとき、それは私たちの生き方を変えます。神がともに歩まれることを信じ、その導きに応えていくことこそ、私たちの使命です。
今日、この福音を通して、私たちも復活の主との出会いを新たにし、心が燃える体験を求めましょう。そして、その燃える心を持って、私たちが出会う人々に希望と喜びを伝えていく者となりましょう。