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これってどんな種?

悔い改めの実という種 四旬節第3主日(ルカ13・1〜9)

 親の愛を感じたことはどのような時でしょう。私が小学5年生に一度入院したことがあります。痛くて苦しんでいる側で母が「できることならみっちゃんと代わってあげたい」と言われたことがあります。もちろん、その他にもありますがその時の記憶は、今でも忘れられない母の愛を感じた一つです。

 きょうのみことばは、ユダヤ人たちがイエス様の所に来て「ピラトがガリラヤ人の血を、彼らの犠牲(いけにえ)に混ぜた」ことを伝える場面です。きょうのみことばの前には、「どうして、今の時代を見分けることを知らないのか」(ルカ12・56)とか「どうしてあなた方は、何が正しいかを、自分で見極めないのか」(ルカ12・57)とイエス様が人々に話されています。

 イエス様のこれらの話は、ユダヤ人たちの頑なな心について指摘しているようです。彼らは、自分たちの判断は間違っていない、罪など犯していない、と思っていたのでしょう。今の私たちを振り返った時、大きな罪を犯すということは余程のことがない限りありません。きっとユダヤ人たちも同じだったと思います。しかし、イエス様は、「仕事をして家族を養い。律法を守っているし、自分は罪を犯していない」と思っている人々に対して指摘しているようです。

 きょうのみことばは「まさにその時、数人の人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を、彼らの犠牲に混ぜたことを、イエスに告げた」という節から始まっています。この「まさにその時」というのは、イエス様がユダヤ人たちの頑なな心を指摘していた【まさにその時】というわけです。

 この事件は、ローマの支配に対して反逆行為をしていたユダヤ人たちがピラト総督の兵士によって殺されたということのようです。イエス様は、彼らの報告に対して、「あなた方は、……罪深い人々だったと思うのか。そうではない。あなた方に言っておく。あなた方も悔い改めなければ、みな同じように滅びる。」と言われます。人々は、この事件が起こったことをイエス様に報告することで、ローマ人に対して何とか意見を言ってほしい、と思ったことでしょうし、自分たちが殺されないで良かった、と思ったかもしれません。もちろん、イエス様が指摘されたように、そのような事件に遭った人は、何らかの罪を犯していた報いだ、と思っていたのかもしれません。

 しかし、イエス様は、「自分は、彼らのような罪を犯していない」と思っている人々に対して「あなた方に言っておく。あなた方も悔い改めなければ、みな同じように滅びる。」と言われたのです。私たちは、時々自分の周りを見て「私は大丈夫だ」と思うことがあります。そのような時こそ、「私は大丈夫だろうか」と自分を振り返る機会ではないでしょうか。

 イエス様は、続けて「シロアムの塔が倒れ、死んでいったあの18人は、……そうではない。あなた方に言っておく。あなた方も悔い改めなければ、みな同じように滅びる。」と言われます。このような事故や災難は、今の時代でも起こっています。私たちは、そのようなニュースを耳にするとき、「かわいそう。大変なことになった」と思うと同時に、「もし、神様がいるのならどうしてこのような悲惨な事件や災難が起こるのだろうか」と思うのではないでしょうか。

 パウロは、コリント書で「その岩とはキリストでありました。しかし、彼らの多くは神のみ心にかなわなかったので、荒れ野で滅ぼされてしまいました。以上のことはわたしたちを戒める前例として起こったのです。……ですから、自分は大丈夫だと思う人は、倒れないように気をつけなさい」(1コリント10・4〜6、12)と伝えています。パウロは、さまざまな災難や事故は、決しておん父が彼らを見捨てたり、罰を与えたりしているのではなく、生きている今の人が罪を犯さないように、【前例】として起こっていると伝えているのではないでしょうか。

 イエス様は、人々に対して「ある人が、自分のぶどう園にいちじくの木を植えておいた。ある日、その実を探しに行ったが、一つも見つからなかった。……」という喩えを話されます。この喩えの中に出てくる「ある人」というのは、おん父のことですし、「ぶどう園」は私たちが生きている「この時」「この場」です。そして、「いちじくの木」というのは、私たちですし、「番人」は、「イエス様」ではないでしょうか。この喩えは、いちじくが【実】を結んでいないということではなく、【実】に喩えられている【悔い改め】たかどうかということではないでしょうか。イエス様は、私たちが【悔い改め】るために、私たちと同伴され、滅ぼされないように願い、私たちをおん父への道に向かうようにありとあらゆる方法で助け、応援してくださいます。

 おん父は、ご自分が創造された私たちが滅びることを望んでいません。おん父は、いつも私たちをアガペの愛で迎え入れ、私たちが【悔い改めの実】を結び、ご自分の所に戻ることを願っています。私たちは、改めて【今の私は】と振り返り、【悔い改めの実】を結ぶことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 霊的祝宴という種 四旬節第4主日(ルカ15・1〜3、11〜32)

  2. 悔い改めの実という種 四旬節第3主日(ルカ13・1〜9)

  3. 彼に聞けという種 四旬節第2主日(ルカ9・28b〜36)

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