私たちは、何らかの人との関わりの中で生き、生かされています。それは家族であり、学校であり、地域社会であり、職場であり、教会共同体など様々な人々との関わりで生きています。しかし、そのような中でも、気が合わない人、できれば関わりたくない人もいることでしょう。ただ、そのような人を決めているのは、「私」なのかもしれない、ということに気づくこと、その人の上にもイエス様の愛が注がれている、と思うことでその人への思いが変わるのではないでしょうか。
ある神父様が、「毎朝すれ違う人がいて、その人に『おはようございます』と挨拶をしていました。最初のころは挨拶が返ってこなかったのですが、毎朝続けていくうちに、その人から『おはようございます』という挨拶が返って来たのです。どのような人にも、まず、相手を変えようとするのではなく、私の方が変わらなければ相手も変わらないのですよ」と話してくださいました。
さて、きょうのみことばは「あなた方の敵を愛しなさい」ということと「人を裁いてはならない」ということをイエス様が教えられる場面です。この前の箇所は、イエス様が群衆に『4つの幸いと4つの不幸』について話されました。イエス様は、再び集まっている弟子と群衆に対してさらに「わたしに耳を傾けているあなたがたに言う」と言われた後に「敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい。呪う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」と言われます。どうして、イエス様は、『4つの幸いと4つの不幸』の後にこのような教えを話されたのでしょうか。
イエス様は、幸いの箇所で「人々があなた方を憎むとき、また人の子のために追い出し、ののしり、あなた方の名を汚らわしいものとして葬り去るとき、あなた方は幸いである。」(ルカ6・22)と話されています。イエス様は、ご自分に従ってくる人が受けるかもしれない、迫害をあらかじめ人々に話された後に、さらに「敵を愛し、……あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」と言われます。もうすでに、イエス様の弟子になったことで様々な嫌がらせや、侮辱を受けていた人もいたかもしれませんし、これから受ける人もいるかもしれません。イエス様は、そのような人々に対して、「敵を愛し……」と言われたのでしょう。
このイエス様の教えを聞いた人々は、どのように思ったでしょうか。きっと大半が「そのようなことをできるはずがない」と思ったことでしょう。さらにイエス様は「あなたの頬を打つ者に、……あなたの持ち物を奪おうとする者から、取り戻そうとしてはならない」と言われます。イエス様のこの話を聞いた人々は、「そのようなお人好しなことができるでしょうか。やられたらやり返すと言うのは普通ですよ」と思ったのではないでしょうか。このようなことは、今の時代でも起こっていることです。
もしかしたら、「頬を打つ者」「上着を奪う者」「持ち物を奪う者」という人は、「あなた」との間に何らかの関係、理由があったのかもしれません。「頬を打つ者」はその前に「あなた」と意見を交わした際に食い違い、怒りのあまり頬を打ったかもしれません。「上着を奪う者」「持ち物を奪う者」の場合は、「奪う」という言葉を【欲しがる】と置き換えると、寒くて辛い思いや、本当に貧しさからくる欲求という理由があったのかもしれません。イエス様は、そのような人に「求める者には誰にでも与えなさい」と言われますし、「あなた方は、人からしてほしいことを、人にもしなさい」と言われます。このことは、相手に対しての【愛】がなければ難しいことです。
さらにイエス様は、あなた方を愛する人を愛したからといって、何の恵みがあるだろうか。罪人でさえ、自分を愛する人を愛している。……あなた方はあなた方の敵を愛しなさい。」と言われます。イエス様は、「人からしてほしいこと」というだけではなく、今度は「愛」「善意」そして「貸し借り」という【心や信頼】ということに対しても話されます。イエス様は、自分に対して好意を持つ人、信頼できる人だけではなく【敵を愛しなさい】と言われ、さらに「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者になりなさい」と言われます。イエス様は、ご自分に「『耳を傾けているあなた方』の最終的な目標は、【おん父の憐れみ深さ】まで到達することですよ」と言われます。
イエス様は、「裁いてはならない」「人を罪に定めてはならない」「赦しなさい」「与えなさい」と言われます。私たちは、イエス様が言われることではなく、反対の「人を裁くこと」「罪に定めること」「赦さないこと」「与えないこと」の方をついつい行ってしまいます。イエス様は「あなた方が量るその升で、あなた方も量り返されるからである」と言われます。私たちは、おん父の憐れみ深さを思うとき、イエス様が言われる「私たちの量る升」を大きくすることができたらいいですね。