書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

おうち黙想

砂漠の中で歌う 第5回(全5回):「復活の歌」

―死の中で響く希望の歌―

 「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』」(ルカ23:46)。十字架上でのイエスのこの祈りは、人類史上最も悲痛な場面の一つであると同時に、深い信頼と希望を映し出す場面でもあります。十字架は極刑の象徴であり、一般的にはそこには絶望と恥辱しか見いだせないはずです。しかし、イエスはその苦しみのただ中でなお、父なる神への完全な委ねを示しました。これはキリスト教信仰の核心である「死と復活」を象徴的に表す出来事です。

十字架の沈黙と復活の光

 イエスが十字架にかけられたとき、弟子たちは恐れや混乱の中で逃げ去りました。メシアだと信じていたイエスが、まさかあっさりと捕らえられ、屈辱的な死を遂げるとは想像もしていなかったはずです。彼らにとっては、その瞬間、すべてが崩れ去り、暗黒の沈黙が訪れたように感じられたことでしょう。
 しかし、聖書の福音書はそこで物語を終わらせません。イエスは復活され、弟子たちの前に新たな姿で現れ、「平安があるように」と語りかけます。絶望と思えた死の向こう側に「新しい命」が待っていたのです。復活は、沈黙が永遠に続かないことを宣言し、“神には人間の限界を超える力がある”ことを劇的に示します。

イエスが引用された詩編と祈り

 福音書の中で、イエスは十字架上でも詩編の言葉を口にされました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか」という叫びは、詩編22篇の冒頭です。この詩編は嘆きから始まりますが、最後には神をほめたたえる言葉で結ばれます。イエスはその流れを踏まえながら、ご自身の死の苦しみを神に訴えつつも、最終的には「御手にゆだねる」という祈りで締めくくられました。
 私たちも人生の中で十字架のような痛みや絶望を味わうとき、同じように嘆きから祈りへ、そして希望へと向かうプロセスをたどることができます。詩編が示す“嘆きが賛美へと変容する”動きは、イエスの受難と復活を通して、より強く私たちの生き方を照らすのです。

死の体験と復活のリアリティ

 死という言葉は、私たちの日常でタブー視されがちです。しかし、イエスの十字架と復活は、死が単なる終わりではないことを鮮やかに告げています。もちろん、現実には誰もが死を迎え、親しい人との別れや自分自身の老いや病を避けることはできません。人生においても、「夢の死」「計画の死」「関係の死」など、さまざまな喪失や挫折を経験するでしょう。
 それでも復活の物語は、神は死や無力感のただ中でさえ、まったく新しい道を開くお方であると宣言します。たとえ人間の目には「終わり」しか見えなくても、神は「そこから始めよう」と言われる。弟子たちが失意の中でもう一度立ち上がれたのは、復活のイエスと出会ったからに他なりません。ここには神が与えてくださる希望の根拠がはっきり示されています。

四旬節を通して味わう死と復活

 四旬節は、イエスの受難に思いを馳せ、悔い改めと省察の時を過ごす期間です。同時に、それは復活祭へと続く道のりでもあります。イエスの苦しみに共感しつつ、自分自身の罪や弱さに向き合うプロセスは、まさに“死を体験する”ようなものといえるでしょう。そこには自分の力ではどうしようもない限界や欠落を認めざるを得ない痛みがあります。
 しかし、四旬節のゴールは“死”そのものではなく、“復活”にあります。死を直視することで、復活の喜びを深く味わえるというのがキリスト教の逆説です。私たちも自分の人生において、何かが終わりを迎えたと感じるときこそ、「神がここから復活の歌を始めてくださるかもしれない」と期待を置くことができます。

絶望の只中で響く「復活の歌」

 「復活の歌」とは、すべての悲しみがきれいに消え去るという意味ではありません。イエスの復活後も、弟子たちは迫害に遭い、困難に直面し続けました。それでも、彼らが失わなかったのは“神が生きておられる”という確信です。復活の力は、死に象徴されるあらゆる絶望よりも強いという真理を知ったからこそ、弟子たちは福音を宣べ伝える使命に生涯を捧げることができたのです。
 この「復活の歌」は、失意や挫折を経た私たちの口にも宿り得ます。大切なものを失った喪失感や人生の暗闇をくぐり抜けた後だからこそ、復活の希望はよりリアルに響くのです。失敗や後悔、破局を通過した者は、以前よりも柔らかな心で「神が新しい道を用意しておられる」と告白できるかもしれません。そうして響いてくる歌は、ただの楽観的なメッセージではなく、深い痛みを通して確かめられた“揺るぎない希望”の証しとなるでしょう。

新しい命の歌を捧げるために

 四旬節の終わりに迎える復活祭は、単なる行事ではなく、私たちに「死から命へ」という旅路をリアルに体験させる大切な機会です。荒れ野のような試練、涙ながらに歌を失う悲しみ、沈黙を恐れながらも神のささやきを求める葛藤、困難と闘うための賛美という武器――これらすべてが最終的に“復活の歌”へとつながります。
 イエスが最後の瞬間に「御手にゆだねます」と叫ばれたように、私たちも人生のあらゆる局面で「神よ、あなたに委ねます」という信仰を持ち続けるならば、死や絶望が終わりではないことを知ることができるでしょう。そこには必ず神が備えておられる新しい命の始まりがあります。悲しみの夜が明けるとき、私たちは目に見えない形で神が働いてくださった数々の恵みを知り、心からの賛美――すなわち「復活の歌」を捧げることができるのです。イエスの十字架と復活の物語は、その確信を永遠に語り続ける最高の証拠といえます。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

  1. 砂漠の中で歌う 第5回(全5回):「復活の歌」

  2. 真理がもたらす自由と神の子の証明(四旬節第五水曜日)

  3. 砂漠の中で歌う 第4回(全5回):「賛美は戦いの武器」

RELATED

PAGE TOP