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おうち黙想

砂漠の中で歌う 第1回(全5回):「荒れ野へ招かれる神」

―荒れ野は罰ではなく、神との出会いの場である―

 「それでもなお、わたしは彼女を誘い、荒れ野に導いて、心に語りかけよう。」(ホセア書2:14)という言葉は、神が人々をわざわざ荒れ野へと招く行為に深い意図があることを示しています。一般的に「荒れ野」という言葉からは、乾燥と渇き、孤立や不安といった厳しいイメージを抱きやすいものです。しかし聖書において荒れ野は、単なる試練や罰を象徴する場とは限らず、むしろ神と新しい形で向き合う特別な舞台として描かれています。そこでは日常の安定が奪われ、人間の計画や誇りが崩れてしまうがゆえに、逆に神を頼り、神の声を聞き取る余地が生まれるのです。

荒れ野で鍛えられたイスラエルの民

 旧約聖書で象徴的なのは、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地へ向かう途中、長い年月を荒れ野で過ごした出来事です。彼らは「なぜこんな過酷な場所を通らなければならないのか」と嘆き、飢えや渇きに苦しみました。彼らの目には、神に見捨てられたかのような状態に映ったかもしれません。しかし、モーセを通して示されたマナや岩から湧き出る水は、「神が共にいてくださる」という確かな印となります。この不思議な糧や水の経験を通して、彼らは自分たちの力では生きられない現実を体感し、日々神に依存せざるを得ない生き方を学んでいきました。
 荒れ野での生活は、外面的にも内面的にも過酷そのものでした。しかし実はそこが、真に神を信頼する心が培われる場でもあったのです。「荒れ野を通らなければ、約束の地にはたどり着けない」――これは単なる地理的条件に限らず、信仰的な成熟のプロセスをも象徴しています。エジプトでの奴隷状態から解放されたばかりの民は、自由になると同時に、自律性や責任、そして神との深い契約関係を学ぶ必要があったのです。その学びに欠かせなかったのが、何もない荒れ野で神により頼む経験でした。

荒れ野に招く神の意図

 ホセア書で語られる「荒れ野に導いて、心に語りかけよう」という神の言葉には、厳しさの背後にある慈しみが見え隠れします。試練は苦痛を伴うだけでなく、時に人間のプライドや余計な執着を取り除き、より本質的な姿で神に近づく道を開いてくれます。私たちは普段、仕事や娯楽、人間関係のしがらみなど、多くの要素に囲まれて生活しています。便利さや情報の洪水に紛れて、自分の心の声や神のささやきを聞き逃すことも多いでしょう。
 しかし、何かのきっかけで「荒れ野」に立たされるとき、私たちは自分の無力さと向き合わざるを得ません。職を失ったり、大切な人との別離があったり、健康を害したり――それらは一見「罰」のようにも感じられますが、そこには神が「さあ、わたしを見上げなさい」と招いておられる可能性があります。普段ならば後回しにしていた祈りや黙想が、荒れ野のような状況では突然切実なものとなり、自分の根源的な求めが炙り出されるのです。

試練を神の視点でとらえる

 私たちは試練に直面すると、「どうして神様がこんな目に合わせるのか」と嘆きがちです。しかしホセア書の言葉が示唆するように、神は試練のただ中であっても、むしろそれを利用して私たちの心に語りかけようとしておられます。人間の視点では「苦痛」としか思えない状況も、神の視点からは「あなたが本当に神を知るための学びの時間」であるのかもしれません。
 もちろん、苦難が訪れたときに必ず「これは神の試練だ」と単純に断定するわけにはいきません。人生の出来事は単線的に割り切れず、不可解なことも多々あります。しかし、そのなかで「この荒れ野には、何か神の深い意図が隠されているかもしれない」と思い巡らせるだけでも、私たちの視野は変わってきます。痛みを単なる“不運”ではなく、学びや成長のチャンスとしてとらえようとする姿勢は、神への開かれた心を養います。

荒れ野でこそ聞こえる神の声

 多くの信仰者が証しするのは、「いちばん苦しかったときに、いちばん神が近く感じられた」という体験です。日常の平穏な時期には気づけなかった神の存在や恵みを、荒れ野を歩むような困難のただ中で初めて実感したというエピソードは少なくありません。目に見える助けもなく、頼れるものが一切ない状況だからこそ、神は私たちのもっとも深い部分に語りかけることができるのです。
 それは神が意地悪をしているのではなく、人が本当に神の前で素直になれるタイミングを待っておられるということかもしれません。人間の誇りや自己欺瞞が剥がれ落ちたとき、人は“自分の限界”を悟り、“神の限りない力”を受け入れることができるのです。だからこそ、荒れ野は決して「神の罰」だけではなく、「神との深い出会い」の場となるのです。

荒れ野を通過した先に生まれる歌

 荒れ野は険しい道のりですが、そこを通り抜ける過程で生まれる祈りや讃美は、表面的なものではなく、骨の髄から湧き上がる本物の信仰表現になります。イスラエルの民も、荒れ野でしばしば神に対して文句を言いながらも、最後には神の偉大さをほめたたえる心を育んでいきました。人間的な弱さをさらけ出しながら、最終的には神への信頼を深めていく姿は、私たちにとっても学びの多い道筋でしょう。
 日常に戻ったあとも、人は荒れ野の体験を思い出しては神の真実を味わいます。試練の中で育まれた讃美には、“どん底を知る者”ならではの強さと説得力があります。すべてを失ったと思える場所で神を見出した人は、そこから生まれる喜びと感謝を忘れないからです。その歌は、荒れ野を抜けた先でもずっと響き続け、さらに新たな荒れ野に直面したときの支えともなっていくでしょう。

荒れ野の招きに応えるために

 私たちは自分の人生で荒れ野を避けたいと思うのが普通です。苦しみや不便を好む人などいないでしょう。しかし神が荒れ野へと招くとき、それは私たちを罰する目的ではなく、むしろ「あなたの心に直接語りかけたい」という愛の表現でもあるのです。そこには神が「ここで改めてわたしに耳を傾けよ」という呼びかけを発し、私たちの抵抗や不安を取り払おうとされる意図が潜んでいます。
 だからこそ、荒れ野を恐れるあまり、神の導きを拒絶してしまうのではなく、その試練に込められた可能性を見出すことが大切です。荒れ野に立たされたときほど、「神は私に何を伝えたいのだろうか」「この状況から何を学べるだろうか」と祈り尋ねる姿勢を大事にしたいものです。そこで神と深く出会った人は、次に来る試練にも揺るがない心を備えることができるでしょう。荒れ野は確かに厳しい場所ですが、神が共にいるなら、そこは最も豊かな信仰の学校ともなるのです。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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