私たちの生活の中で時々、「えっ、なぜこのタイミングで……」というようなことはないでしょうか。例えば、忙しい時に限って来客があったり、電話がかかってきたりするとか、心の中がざわざわしている時に限って、悩みや質問を受けたり、何か大事なことを頼まれたりするとか、「なぜこのタイミングなのだろう」ということがあるのではないでしょうか。そのような時、私たちはどのような対応をしているでしょうか。ちょっと、振り返ってみるのもいいかもしれません。
きょうのみことばは、イエス様がご自分と一緒に人を漁るための弟子を召される場面です。みことばは「さて、神の言葉を聞こうとして、群衆がイエスの周りに押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレト湖の岸辺に立っておられたが、……」という節から始まっています。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けら、聖霊に導かれて荒野に行かれ、再び霊の力に満ちてガリラヤにお帰りになり会堂で説教されたり、悪霊に憑かれた人や病人を癒やされたりします。イエス様の評判を知った多くの人々は、「神の言葉」を聞こうとしてゲネサレト湖におられたイエス様の所に人々が押し寄せてきたのでした。
イエス様は、岸辺に寄せてあった2そうの小舟をご覧になられ、そのうちの1そうのシモンの舟に乗られ、岸から少し離れるようにお頼みになられます。シモンをはじめ漁師たちは、舟を降りて網を洗っていました。もちろん、彼らは夜通し漁をした後の網を洗っていたのでしょうが、この日は、残念ながら不漁の日だったのです。ですから、彼らはかなり落ち込みながらの作業をしていたことでしょう。そのような時に、イエス様がシモンの舟に乗られて「岸から少し離れてください」と頼まれたのです。シモンは、以前、姑が高熱を出していた時にイエス様から彼女を癒しされたので親しかったでしょうが、「なぜ、今なの」と思ったことでしょう。
それでもシモンは、イエス様の頼みに応じて舟を岸から少し離します。イエス様は、座られて舟から群衆に話されます。この「座られて」というのは、舟の上で安定しないということではなく、当時のラビが「神の言葉」を話すときの合図だったのです。ですから人々は、イエス様が舟に座られたのを見ると、これから「神の言葉を語られる」と心をイエス様に向けたのです。私たちは、この【舟】がただの【舟】ではなく、【教会】を表していることに気づくのではないでしょうか。【教会】は、イエス様を中心とした【舟】であり、私たちがイエス様とともに【人を漁る使命】を行う場でもあります。
シモンをはじめ、ヤコブやヨハネもイエス様が群衆に「神の言葉」を話されているのを聞いていたことでしょう。みことばには書かれていませんが、不漁で落ち込み、疲れ切ったシモンたちの心を癒すような話をしていたのかもしれません。イエス様は、話を終えるとシモンに「沖に乗り出し、網を下ろして、漁をしなさい」と言われます。シモンたち漁師は、魚が夜になって水面に上がってくるのを知っているので、日が昇ってからの漁をしません。ですから、漁に関して全くの素人であるイエス様の言葉に疑問を持ったことでしょう。
それでシモンは、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と言ってその通りにします。シモンが「お言葉ですから」という言葉は、イエス様に対して「あなたは【先生】かもしれませんが、漁師ではないでしょう」という意味ではなく、【神の言葉(お告げ)】として素直に従ったととらえてもいいのかもしれません。
それで、そのとおりにすると、おびただしい魚が掛かり、網が裂けそうになり、仲間の舟に合図を送って加勢に来てもらい、2そうの舟が沈みそうになるほど魚が捕れたのです。シモンはこれを見て「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」とイエス様の足元にひれ伏します。シモンは、イエス様の奇跡に神々しさを感じ、「畏れ多くて自分のような罪深い者がイエス様のお側にいることはできない」と思ったのでしょう。このシモンの言葉は、彼の告白と言ってもいいでしょう。シモンは、イエス様の奇跡を目の当たりにして、自分のちっぽけさ、弱さ、無力さに気がつきます。
イエス様は、そのような彼に対して「恐れることはない。今から後、あなたは人を漁るようになる」と言われます。シモンは、このイエス様の言葉によって癒やされ、変えられ、すべてを捨ててイエス様に従うという恵みをいただきます。それは、イザヤがセラフィムによって清められたように、また、パウロがイエス様に出会い回心したように、イエス様の【恐れることはない】という言葉に変えられたのでした。この言葉は、私たち一人ひとりに対しても言われているのです。私たちは、シモンたちのように【一切を捨てる】ことは難しいですが、せめて自分の【エゴ】を少しずつ捨てて、イエス様の【恐れることはない】という言葉に信頼してイエス様と共に歩んで行けたらいいですね。