*「病者の聖なる塗油と司祭の祈りをもって全教会は、苦しみを受け栄光を受けられた主に、病苦を和らげ病人を救われるように願い、なお病人に対しては、進んで自分をキリストの受難と死に合わせて、神の民の善に寄与するように勧め励まします。」
1 秘跡の根拠
*病気と苦しみとは、つねに人生を悩ますもっとも大きな問題の一つでした。人間は病気によって自分の無力、限界、有限性を体験します。病気はすべて、人に死を垣間見せます。
*病気は場合によって、不安、閉鎖的な心、時には絶望や神に反抗する気持ちさせ抱かせます。他方、病気は人の成熟を助け、自分の人生にとって本質的でないものを識別させ、人を本質的なものに向かわせます。また、病気が神の探求や神への復帰を促すことがしばしばあります。
2 旧約聖書での病者
*旧約時代の人々は、病気を神とのかかわりの中で受け止めていました。神に自分の病気のことで嘆きを訴え、いのちと死の主である神に治療を求めます。病気は回心への導きとなり、神のゆるしが治療の始まりとなります。
*イスラエルの人たちは、病気が神秘的に罪と悪とにかかわっていること、律法に従って神に忠実に生活すればいのちを取り戻すということを体験します。神は「わたしはあなたを癒やす主である」(出15・26)と言われます。預言者イザヤは、苦しみには他の人々の罪をあがなう意味がありうるという示現を受けて、神がすべての罪をゆるし、すえての病気が癒される時にシオンにもたらされるだろうと告げています。
3 医者であるキリスト
*キリストが病人に対して共感を抱き、さまざまな病人を癒やされたということは、神がその民を訪れてくださり、神の国が近づいたということをはっきりと示すものです。イエスは癒やす権能だけではなく、罪をゆるす権能も持っておられます。イエスは人間の霊肉全体を癒やしに来られました。病人が必要とするのは医者です。
*苦しむすべての人に対する共感はきわめて深く、「(わたしが)病気の時に見舞ってくれた」(マタ25・36)ということばからも分かる通り、苦しむ人々とご自身とをまったく同一視なさいました。
*病人へのイエスの大きな愛は、長い時の流れを中でも途切れることなく続き、今日でも、肉体や精神の病に苦しむ人々へのいたわりの心をキリスト者に起こさせてくれています。このイエスの愛が、苦しむ人々を助けるたゆまぬ努力の源となっているのです。
*イエスはしばしば、病人に信じることを求めます。治癒のためにつばや按手、泥や沐浴などのしるしを用いられます。病人はイエスに触れようとします。「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたから」(ルカ6・19)です。同じように、今もキリストは秘跡を通して私たちに触れ、私たちを癒やし続けておられます。
4 弟子たちへの招き
*キリストは弟子たちをそれぞれの十字架を担ってご自分についてくるように招かれます。弟子たちはキリストに従いながら、病気や病人たちに対する新しい見方を身に着けました。イエスは弟子たちをご自分の貧しく仕える生活に加わらせ、ご自分の憐れみと治癒の務めを預からせてくださいます。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした」(マルコ6・12~13)。
*聖霊は、ある人々に治癒の特別なカリスマを与えて、復活されたかたの恵みの力を現わされます。しかし、いかに熱心な祈りをしたとしても、すべての病気が治されるとは限りません。例えば、聖パウロはキリストから、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(二コリ12・9)とういことや、自分が耐えなければならない苦しみには「キリストのからだである教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす」(コロ1・24)意味があることなどを教わるのです。
*使徒時代の教会は病人のための固有な儀式を持っていました。聖ヤコブはそのことを次のようなことばで明らかにしています。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(ヤコブ5・14~15)。聖伝はこの儀式を教会の七つの秘跡の一つとして認めています。