ミサの中で係の人が、パン(ホスチア)が入った器とぶどう酒と水を奉献いたします。司祭は、それらを受け取り「神よ、あなたは万物の造り主。ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです」と唱えます。
この中で、私たちは司祭と心を合わせてパンとぶどう酒をおん父にお捧げいたします。司祭は、この祈りの中で「労働の実り」と唱えられますが、これは、私たち一人ひとりの日々の生活のすべてをお捧げすると言ってもいいのではないでしょうか。私たちは、ミサの中で私自身を奉献していると考えると、もっとミサが身近に、また、深く感じられることでしょう。
きょうのみことばは、イエス様の両親が幼子イエス様を主に捧げるためにエルサレムに行かれた場面です。みことばは、「モーセの律法に定められた、彼らの清めの日数が満ちると、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムに連れていった」とあります。イエス様は、神の子ですがご自分を両親の手を通してお捧げられたのです。そして、このことは、パウロが手紙の中で「キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、僕と身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、……」(フィリピ(2・6〜7)と伝えているように、イエス様は、【人間として】ご自分をおん父に捧げられたのです。
さて、両親が律法の慣習に従ってイエス様をお捧げするために神殿に入ってきた時に、シメオンも聖霊に導かれて神殿に入っていきます。そして、シメオンは幼子イエス様を抱きあげ、神をほめたたえて、「主よ、今こそ、あなたのお言葉のとおり、……」と言います。シメオンは幼子イエス様の温もり、香り、微笑みを感じたことでしょう。そして、聖霊に満たされてこれらの言葉を口にしたのではないでしょうか。シメオンは、「あなたの救いを見たからです。この救いは、……異邦人を照らす光、あなたの民イスラエルの栄光です」と賛美しています。このことは、イエス様が【救い主】であり、イスラエルの民だけではなく、異邦人を照らす光とありますように、全世界の人々の【救い主】として来られたと言っています。イエス様は、【光】として私たちの所においでになられました。イエス様は、【光】として罪深くて、弱い私たちの心を、また、私たちの【歩み】を照らしてくださるお方なのです。私たちは、このイエス様の【光】を感じ、お委ねして歩むことができたらいいですね。
さらにシメオンは、両親を祝福してマリア様に「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、逆らいを受ける徴として定められています。」と言います。私たちは、このシメオンの言葉が、イエス様の生涯のことを預言しているということを知っています。しかし、このことは、聖書の中だけではなく、みことばの「イスラエルの」というのは、全世界のことを指していると考えますと、今の私たちの時代にまで及んでいるということを忘れてはいけないのはないでしょうか。
シメオンは、続けて「あなた自身の心も剣で貫かれます。それによって、多くの人のひそかな思いが、露わにされるでしょう」と言います。このみことばは、イエス様が十字架上でお亡くなりになられた時のマリア様の心を預言している言葉です。マリア様のこの心は、私たちの罪を贖って亡くなられたイエス様を抱かれている【母の姿】です。その心に私たちは、辛さもありますが、安心と希望を抱くのではないでしょうか。
シメオンが幼子イエス様について祝福しまた、預言しているときに女預言者アンナが近づき、神をほめたたえ、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人に、幼子について語ります。アンナがどのようなことを人々に語ったのか、みことばには書かれていませんが、ヘブライ書の中に「キリストもまた一度だけ、多くの人の罪を負うために、ご自分をささげられたのです。しかし、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために、現れてくださるのです。」(ヘブライ9・28)とありました。この二つのみことばの中には「贖いを【待ち望む人々】」「ご自分を【待ち望む】」という共通の表現が出てきます。アンナは、幼子イエス様が私たちの「救いのために現れた」と預言したのではないでしょうか。
シメオンとアンナの預言は、イエス様がどのような形で亡くなられるか、そして、その死と復活によって私たちを贖い、救ってくださるかを私たちに伝えているようです。幼子イエス様の【奉献】は、ただの律法の慣習だけでなく、十字架上での【死】によっておん父にご自分を【捧げられる】ところまで続いているのです。私たちは、イエス様のこの大いなるアガペの愛に感謝と信頼のうちに、私たちの歩みをお捧げすることができたらいいですね。