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これってどんな種?

開放される喜びという種 年間第3主日(ルカ1・1〜4、4・14〜21)

 「虜(とりこ)」の意味は、「何かに熱中して、それから抜け出せない状態になった人を指す」(新明解国語辞典)とあります。この言葉自体は、善い意味でも、悪い意味でも両方の意味でも使いますが、虜になるのが「わたし」なのか「イエス様」なのかで大きく変わってくるのではないでしょうか。エゴからくる何かに熱中し過ぎて周りが見えなくなり、抜け出そうと思っても抜け出せなくなると霊的に苦しい状態になることでしょう。そのような、苦しい状態から抜け出すためには、三位一体の神様からの助けが必要になってきます。

 きょうのみことばは、ルカ福音書の序文とイエス様が初めて公に宣教をされる場面です。みことばは「わたしたちの間で成し遂げられた出来事を、最初から目撃し、……すでに、多くの人々が手をつけました。」という節から始まっています。共観福音書が書かれた年代は、マルコ福音書(紀元50年代)が一番古く次いでマタイ福音書(紀元55年代)そして、ルカ福音書(紀元60年代)の順となっています。

 ルカ福音書が書かれた時には、【多くの手をつけていました】とありますように、イエス様がなさった事柄を【使徒】たちが語り、また、イエス様の名によって奇跡を行い宣教していたことに影響を受けて、イエス様のことを記そうと思った人が多くいたのでしょう。それほど、イエス様がなさったことは、当時の人たちへの影響が大きかったことが窺えます。ルカもその一人だったのです。ルカは、パウロと一緒に生活したことがありますからイエス様のことをいろいろ聞いたのではないでしょうか(テモテ4・11参照)。それで、自分もイエス様について【何か記さなければ】という聖霊からの【使命】を受けたのでしょう。

 みことばは、「すべてのことを初めから詳しく調べましたので、あなたのために、それを順序立てて書き送りたいと思います。」とあります。ルカはもともと医者だったので、詳しく調べることや、整理しながら順序立てて書くことも得意だったのかもしれません。ルカは「ティオフィロさま」に捧げて書いているようですが、「あなたのため」という所にお一人お一人の名前を入れてこの箇所を読むと、「あっ、わたしのために書いてくださったのだ」というように、ルカ福音書がもっと身近に感じられるとともに、豊かな愛も感じられるのではないでしょうか。

 さて、イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、聖霊に導かれて荒野で悪魔の誘惑を受けられた後、再び「霊の力に満ちて」ガリラヤにお帰りになられます。イエス様は、宣教を始められるに際して、常に聖霊と共に歩まれておられます。このことは、私たちが宣教するときも同じことが言えるのではないでしょうか。聖霊は、私たちの心を豊かにし、温め、みことばを伝えようという力をくださるお方であります。イエス様がガリラヤの方々の会堂で教えられたのも、聖霊に満たされていたからでしょうし、その豊かさが人々からほめたたえられたのも聖霊の実りと言えることでしょう。

 イエス様は、ナザレに行かれ、安息日に会堂に入られます。そしてイザヤ書を朗読されます。みことばは「イエスがその巻物をお開きになると、こう記された箇所が目に留まった」とあります。イエス様にイザヤ書の巻物を手渡した人は偶然それを選んだことでしょう。しかし、イエス様は手渡された巻物を開かれ時、「主の霊がわたしの上におられる……」から始まる箇所に【目を留められた】のです。きっと、イザヤ書をイエス様に手渡した時、この人に聖霊の働きがあったのではないでしょうか。

 イザヤ書には「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を伝えるために、主がわたしに油を注がれたからである。」と書き記されていました。この箇所の【わたし】は、イエス様ご自身のことを書き表していますし、ご自身が【メシア】であり「貧しい人に福音を伝える」というおん父からの使命を頂いているということを表しているようです。

 さらにイザヤ書は「わたしが遣わされたのは、囚われ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ知らせ、抑圧されている人に自由を与え、主の恵みの年を告げ知らせるためである」と続きます。この箇所では【開放】【回復】そして【自由】という言葉が並んでいます。もし、私たちの心が何かの【虜】の中にあってそこから、【開放】され、【自由】になったときの【喜び】を想像するとこの箇所の豊かさが私たちの心の中に沁み込んでくることでしょう。

 イエス様は、会堂の人々の視線を受ける中「あなた方が耳にしたこの日、成就した」と言われます。この言葉は、私たち一人ひとりに対しての【この日】と言ってもいいでしょう。イエス様は、私たちのさまざまな苦しみ、拘り、しがらみなどから【開放】し【回復】され、そして【自由】にしてくださいます。私たちは、このイエス様のアガペの愛に信頼しお委ねすることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 開放される喜びという種 年間第3主日(ルカ1・1〜4、4・14〜21)

  2. おん父の宴という種 年間第2主日(ヨハネ2・1〜11)

  3. 洗礼の恵みという種 主の洗礼(ルカ3・15〜16、21〜22)

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