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カトリック入門

第192回 悔い改める人【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

*「ゆるしの秘跡は罪びとに、この秘跡のすべての要素、すなわち、心には痛悔、口には告白、行動にはまったき謙虚さ、あるいは実りのある償いを進んで受け入れることを求めます。」

1 痛悔について
*悔い改める者の行為として、まず痛悔が挙げられます。それは「罪を犯してことを心から悲しみ、その罪を忌み嫌うことであり、今後、再び罪を犯さないという決心を伴うものです」。
*すべてを超えて愛すべき神への愛に基づく痛悔は、「完全な」痛悔(愛による痛悔)と呼ばれます。このような痛悔をするならば小罪のゆるしが得られ、また、できるだけ早くゆるしの秘跡を受けるという固い決心がそれに伴うならば、大罪のゆるしも得られます。
*「不完全な」痛悔(あるいは「後悔」)と言われるものもまた、神の賜物であり、聖霊の促しによるものです。これは、罪の醜さを思うこと、あるいは永遠の罰と罪びとが受けるその他の罰に対する恐れなどから生じるもの(恐れによる痛悔)です。良心のこのような動きから、ゆるしの秘跡によって成し遂げられる恵みの働きのもとでの心の変化が始まる可能性があるのです。不完全は痛悔だけでは大罪のゆるしは得られませんが、ゆるしの秘跡によってそのゆるしを得るための心の準備となります。
*ゆるしの秘跡を受ける準備として、神ことばに照らして良心の糾明を行うことが勧められます。そのために最も適切な指針は、神の十戒や福音書の教え、使徒たちの手紙に記された倫理的な教えなどに見いだされます。例えば、山上の説教や使徒たちの訓戒などです。

2 罪の告白
*罪の告白は、純粋に人間的側面から考えても、私たちに開放感を与え、他の人々との和解を容易にしてくれます。人は告白によって、自分の犯した罪を直視します。そしてその責めを負うだけでなく、再び神と教会共同体とに向かって心を開き、自分の新たな未来を可能にします。
*司祭への告白は、ゆるしの秘跡の本質的な要素の一つです。「悔い改める者は告白の際に、真剣に糾明した後で、意識しているすべての大罪を列挙しなければなりません。たとえその罪を知る者がだれもいない時も、あるいは十戒の第九戒と第十戒とに背いただけであってもです。なぜなら、解きとして、これらの罪は皆に知られながら犯した罪よりも霊魂を深く傷つける、より危険なものだからです」。
*日常の罪(小罪)を告白することは、厳密にいえば必要ではありませんが、教会から強く勧められています。小罪の定期的な告白は私たちの良心を培い、悪い傾きと戦い、キリストによって癒され、霊的生活において向上していく助けとなります。私たちはこの秘跡を通して頻繁に御父の憐みの賜物をいただくことによって、御父のような憐み深くなるよう促されるのです。

3 償い
*多くの罪は隣人に害を与えます。それを償うために、できるだけのことをしなければなりません(例えば盗んだものを返す、中傷された人の評判を回復する、与えた傷の補償をするなど)。これは正義の上からも要求されることです。しかしそれにもまして、罪は罪びとを自身だけではなく、神や隣人とのかかわりを傷つけ、弱めます。秘跡によるゆるしは罪を取り除きはしますが、罪から生じたすべての無秩序を修復するものではありません。罪から立ち直った人は、十分な霊的健康を回復する必要があります。したがって、罪を償うために何かをしなければなりません。すなわち、適切な方法で「弁済する」なり罪を「あがなう」なりする必要があります。この弁済のことを「償い」と言います。
*聴罪司祭が科す償いは、悔い改める者の個人的状況を考慮しながら、当人の霊的助けになることを目指すものでなければなりません。また、犯した罪の重さと性質にできるだけ相応するものであるべきです。償いには、祈り、寄付、慈善の業、隣人への奉仕、自発的な苦行、犠牲、特に私たちが担わなければならない苦しみを忍耐強く受容することなどがあります。キリストはお一人で私たちの罪をただ一度で完全に償ってくださいましたが、このような償いは、そのキリストに私たちが似た者となれるよう助けてくれます。私たちはこの償いによって、復活されたキリストの共同の相続人となることをゆるされます。キリストと「とも苦しむ」(ロマ8・17)からです。

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