気が合う仲間で宴会をするのは、楽しいものです。美味しい食事をし、お酒を呑んで、会話も弾むことでしょう。洗礼の恵みを頂いている私たちは、おん父との宴を待ち望んで歩み続けています。それを想像するだけで心がワクワクするのではないでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様がカナでの婚礼で最初の【徴】を行った場面です。みことばは、「さて、3日目にガリラヤで婚宴があり、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちもその婚礼に招かれていた。」という節から始まっています。この中の【3日目】というのは、洗礼者ヨハネの弟子たちがイエス様の所に泊まり、イエス様の弟子になってからの【3日目】ということです。さらに【3日目】というのは、イエス様が十字架上で亡くなられてから【3日目】に【復活】されたということも今日のみことばから想起できるのではないでしょうか。そのように考えますと、「カナでの婚礼」はただの「婚礼」ではなく、天の国でのおん父との【宴】を現しているのかもしれません。
また、「イエスの母」と「イエスの弟子たち」とあります。日本での結婚式や披露宴は、新郎新婦の両親はもちろん、身内や知人が招かれますが、パレスチナ地方では、特に【家族】の繋がりを大切にしていますから、【婚礼】に招かれるというのは、お互いの密接さ、親しさを重んじたものだったでしょう。そこに、弟子たちも招かれていたので、この【婚礼】は、ますます【天の国】でのおん父との【宴】と言ってもいいのかもしれません。
そのようなめでたい「婚礼」の中でぶどう酒がなくなりかけます。婚礼を催すのですから、それなりの料理やぶどう酒を準備していたことでしょうが、招いた客が多かったのか、宴が楽し過ぎてお酒が足らなくなったのかわかりませんが、ぶどう酒がなくなりかけたのです。もし、無くなってしまったら、客を招いた新郎は大きな恥をかくことになりますし、親族からの厳しい指摘もあることでしょう。マリア様は、そのことをいち早く気づきます。それでイエス様に「ぶどう酒がありません」と伝えます。
今ですと、近くの酒屋に注文してすぐに準備ができるでしょうが、当時はそのようなこともできませんし、近くでぶどう酒を作っている所に行っても間に合いません。きっと、給仕たちは焦ったことでしょうし、新郎やその両親も気がきでなかったことでしょう。
イエス様は、マリア様から「ぶどう酒がありません」と言われたので「婦人よ、それがわたしとあなたとどんな関係があるのでしょう。わたしの時はまだ来ていません」と答えられます。イエス様は、マリア様のことを「母」ではなく【婦人よ】と言われましたがこの呼び方は、イエス様が十字架上で「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」とそばに立っていた弟子を指して言われた時のことを思い出されます(ヨハネ19・26参照)。イエス様は、ご自分が人々を贖うための【十字架上での死】のことを意識されていたのでしょう。そのため、イエス様は、その後に「わたしの時はまだ来ていません」と言われたのでしょう。
それでも、マリア様はイエス様がなんとかしてくださると信頼のうちに、返事を聞く前に、給仕たちに「何でもこの人の言うとおりにしてください」と言われます。私たちの感覚では、「そんな無茶なことを言われても」と思うのかもしれません。しかし、イエス様は、給仕たちにユダヤ人たちが清めに用いる石の水瓶に水を汲むように伝えます。みことばには、「水飴が2ないし3メトレテス入りのものである」とありますが、およそ80リットルから120リットルの水瓶が6つもあるのですから、とてつもない量の水がぶどう酒に変わったかを想像できます。ちなみに、この清めのための水瓶というのは「神との関係がふさわしいものであるように、体を清潔にするユダヤ人の宗教生活に使うための水を入れている水瓶」のようです。このように考えますと、この水瓶からぶどう酒ができたというのは、とても深い意味があることがわかるのではないでしょうか。
イエス様は、続けて給仕たちに「さあ、それをくんで、宴会の世話役の所に持って行きなさい」と言われます。この給仕たちは、イエス様から言われた通りに【ただ】やっただけですが、その水瓶に入れた水がぶどう酒に変わるとは分からなかったでしょう。私たちは、ここからイエス様から言われたことを【ただ】素直に行うことの大切さを学ぶことができるのではないでしょうか。
世話役は、そのぶどう酒を味わい、花婿に「……あなたは善いぶどう酒を今まで取っておいたのですね」と伝えます。もし、このぶどう酒がおん父からのお恵みと考えますと、おん父の恵みは常に善いもの出し続けてくださるという意味ではないでしょうか。おん父のアガペの愛は、世話役も気づかないような形で降り注いで下さっているのです。私たちは、「いま」頂いているおん父のアガペの愛に気づき、おん父の【宴】の喜びに入ることができたらいいですね。