マタイ28:16-20
さて、十一人の弟子たちは、ガリラヤに、イエスが指示された山へ行った。そして、イエスを見て拝んだ。しかし、疑う者もいた。 イエスは近づいてきて、彼らにこう言われた。「わたしは、天においても、地においても、すべての権威を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。そして、父と子と聖霊の名によって、彼らに洗礼を授け、わたしがあなたがたに命じたことを、すべて守るように教えなさい。見よ、わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにある。」
分析
マタイによる福音書28章16-20節は、イエスの復活後の最後の教え、いわゆる「大宣教命令」として知られる場面です。この箇所には、弟子たちの信仰と疑念が交錯する様子が描かれています。興味深いのは、イエスを「拝んだ」が「疑う者もいた」という点です。この二重性は人間の信仰の現実をよく表しています。信仰者であるにもかかわらず、神の働きを完全に理解できないことがあるのです。
さらに、「イエスが指示された山」に行ったという描写は、聖書における「山」が神の啓示や出会いの場を象徴することを思い起こさせます(例:シナイ山、変容の山)。弟子たちはこの山でイエスに直接出会い、信仰と疑いの狭間に立ちながらも、イエスから新たな使命を受けるのです。
イエスの宣言「わたしは、天においても、地においても、すべての権威を授かっている」は、ダニエル書7章14節の「人の子」に言及された預言を成就するものと見なされます。この権威は、神の計画が歴史と宇宙を超越していることを示し、弟子たちに大胆に行動する根拠を与えています。
神学的ポイント
この箇所の神学的核心は、「すべての民」と「父と子と聖霊の名によって」というフレーズにあります。ユダヤ人の枠を超えて全世界に宣教を広げるという命令は、神の救いの計画が普遍的であることを明らかにします。この普遍性は、アブラハムへの約束「地上のすべての民族があなたによって祝福される」(創世記12:3)を実現するものです。
また、「父と子と聖霊の名によって」という命令は、三位一体論の確立に重要です。この箇所は、キリスト教信仰が単なる道徳的指針ではなく、神の本質に根ざしたものであることを示しています。洗礼において「名」によって新しいアイデンティティを受けることは、信者が神との契約に入ることを意味します。
最後の言葉「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにある」は、インマヌエル(「神が私たちと共におられる」)という神学的テーマを再確認します。イエスの昇天によって離れるように見える状況においても、復活の主は弟子たちを見捨てないという約束です。
講話
今日の私たちも、弟子たちのように「信じるが、疑いもする」状態にあるかもしれません。信仰は、すべての答えが明らかになる状態ではなく、不確実さの中で神を信じて歩む勇気を求めます。しかし、イエスは私たちに「すべての権威」を授ける約束を与えました。この権威は、私たちの能力ではなく、神の計画に依存しています。
また、「すべての民」を弟子とするという使命は、私たちの日常生活の中でどのように実現されるでしょうか。必ずしも海外宣教や牧師職だけを指すわけではありません。職場や家庭、地域社会での小さな証しが、その一歩となります。
最後に、イエスの約束に目を向けましょう。「わたしは、いつもあなたがたとともにある」という言葉は、孤独や恐れを抱える私たちにとっての希望の光です。この約束を思い出しながら、私たちも大宣教命令に応える準備をしようではありませんか。疑いの中にあっても、信仰の行動を起こす時、イエスは確かに私たちと共に歩んでおられるので