親愛なる兄弟たち、
第11回修道会総会後の私たちの歩みの第三段階は、私たちのアイデンティティの多くの側面をさらに深める機会を提供しています。特に、私たちは「交わりの職人」であることを考察します。それは一歩一歩新たにされる旅であり、私たちはそれを無視するつもりはありません。総会の目的—「『あなたがたは心を新たにして自分を変えていただきなさい』(ローマ12・2)。神の言葉に耳を傾け、深い変革の中にある世界と対話しながら、私たち聖パウロ修道会の『出版者』は、福音の喜びを預言的に告げるために交わりの職人となることを約束します」—は、私たちを創造的で生成的であるように導きます。私たちパウロ的修道者にとって、コミュニケーションの技術は証しと福音の宣言です。それは私たち同士、そして神との交わりの中で実現されるものです。
変革の時代、デジタル言語の急激な拡大と、特に今日の人工知能の存在が強まる中で、私たちの使命もまた新たな道を模索し、新しい機会を受け入れる必要があります。パウロ的修道者としての私たちには、職人の姿が求められます。職人とは、まだ存在しないものを創り出し、繰り返すことなく、勇敢であり、聖霊に浸り、「すべてを新たにされる方」に依存する者です(参照: 黙示録21・5)。
アルベリオーネ神父と初期のパウロ的修道者たちは、印刷、ラジオ、映画といった多様な使徒職を通して、この「職人」の精神を体現しました。しかし、現代の私たちは、しばしばこの精神を失い、既知のものに頼りがちです。私たちの使命は、単に変化することではなく、ましてや使徒職を増やすことではありません。むしろ私たちは、生命を生み出し、創造し、そして育む職人でなければなりません。私たちの過去は革新に満ちたものであり、それは単に知るべきものではなく、深く吸収されるべきものです。そうして初めて、現代に新たな道を切り開くインスピレーションとなり、現代の人々が「失望させない希望」のしるしを見出せるようなコミュニケーションの場を提供できるのです。
1. 職人のアイコン
職人のイメージは特に意味深いものです。職人とは誰でしょうか? それは、忍耐と努力、そして巧みな技術をもって仕事を成し遂げる人です。彼は高い技術力と美的センスを要する作品を生み出すプロフェッショナルであり、同時に芸術家であり、革新的な創造者でもあります。自分が作るものに情熱を注ぎ、「手を汚し」、その成果は彼自身の延長とも言えるものです。彼は生命を与え、創造し、その過程で細部にまで気を配ります。そして何よりも、その作品は他者のために作られるものです。職人は仲間を信頼し、共に働きます。良い職人は時を超えるスタイルを作り上げ、その技術の秘密を次の世代に伝えることで、世間から認められ、尊敬される存在となります。
教皇フランシスコは職人について次のように語っています。「職人は現実を見る独自の視点を持っています。彼は無生物の素材の中に、まだ完成していない傑作を見出します。他の人にとっては単なる大理石の塊であっても、職人には家具の一部です。他の人には木片であっても、職人にはバイオリンや椅子、額縁なのです!職人は誰よりも先に、素材が持つ美しさの運命を見抜くことができ、それが彼を創造主に近づけるのです」。
職人の「人間的」側面、その個人的な資質は、私たちがしばしば忘れがちな重要なことを示しています。それは、労働が単なる反復的な生産ではなく、創造の調和に属する「神聖な技術」であるということです。
パウロ的修道者として、私たちは「生産的」かつ「反復的」な使徒職のビジョンを超える必要があります。そして、人を第一に考え、福音のために創造性と情熱、そして知恵をもって取り組む姿勢が求められます。職人は「生み出す」空間で生き、「生み出す」思考をします。私たちの共同体もまた、再び創造的な場、「福音宣教の工房」として捉え直す必要があります。それは、夢やビジョン、人生の経験、そして知らせるべき方、つまりキリストを中心に据える場です。このようにして、使徒の精神の限界が広がり、福音宣教の枠組みも同時に広がっていくのです。グローバリゼーションの時代において、職人の姿はあまりピンと来ないかもしれませんが、実に雄弁なイメージを与えます。この視点に集中することで、私たちの使命にはまだ多くの発見があることを示し、新しいコミュニケーションの場が提供する道を開く手助けとなるのです。「いかなるアルゴリズムも詩や皮肉、愛に取って代わることはできない」ということを忘れてはなりません。
教皇フランシスコはさらにこう付け加えます。「職人の仕事は、働く手段であり、想像力を育む道であり、生活環境や人間関係を改善する方法です。ですから、皆さんを『兄弟愛の職人』とも考えたいのです。良きサマリア人のたとえ話(ルカ10・29~37)は、関係性の職人、共に分かち合う人としての姿を思い起こさせます。サマリア人は近くに寄り添い、傷ついた人を立ち上がらせ、ケアの行為を通して彼の尊厳を回復しました」。
ここから、私たちが重視するもう一つの側面が浮かび上がります。それは交わりです。兄弟愛は共に生きること、質の高い関係の次元です。傾聴、対話、赦しと共に、兄弟愛は互いに生きるということを示しています。「兄弟愛の職人」として生きることは、聖パウロ修道会の共同体とその使徒職の場において不可欠な呼びかけです。兄弟愛は、単なる「快適さ」や安らぎ、問題から離れた平穏を求めることではありません。それは、互いに贈り物として自分を捧げ合う場です。コミュニケーションという行為は、関係、兄弟愛、そして究極的には交わりを生み出すためのものです。
2. 交わりから生まれる技術
交わりは、クリスチャンの生き方のスタイル、私たちの召命、師の後に従う意味を特徴づけます。そして、それはパウロ的修道者の使命の目的でもあります。イエスは祈られます。「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、彼らも私たちの内にいるようにしてください」(ヨハネ17・22)。互いのために生きることは、三位一体のダイナミズムであり、それゆえ教会のあり方でもあります。
聖パウロは、コリントの信徒への手紙の中で交わりの顔を描き、さらに交わりの核心である聖体の中へと私たちを導きます。主の過越祭を記念するこの聖体から、私たちは「教会」であることの意識を新たにします。それは、主によって集められた聖なる民として、新しい命の賜物を祝うものです。そこで私たちは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられる」(ガラテヤ2・20)と言うことができるのです。聖パウロの言葉は実に示唆に富んでいます。「ひとつのパンがあるから、私たちは大勢であってもひとつの体です。すべての人がひとつのパンを分けるからです」(1コリント10・17)。
第二バチカン公会議は、教会憲章において、この教会のアイデンティティを深く掘り下げ、洗礼によって共に歩む力を得た一つの体、一つの共同体である教会の愛の神秘を強調しました。この交わりの教会論は、決して忘れてはならないものです。なぜなら、教会はその愛の交わりにおいて福音の証しを行うからです。同様に、シノダリティは、交わりを具体的に表現する生き方であり、共に歩み、耳を傾け合い、互いの賜物を生かし、共に人類の現実に参加することで、キリストが私たちを交わりへと招いていることを証しするものです。
私たちの共同体生活、特に修道生活の意味は、交わりと密接に結びついています。それは、単なる個人の集まりではなく、互いに受け入れ合い、キリストの言葉を実現する兄弟たちの集まりです。「あなたが私を愛したその愛が、彼らのうちにあり、私も彼らのうちにいるように」(ヨハネ17・26)。このように、交わりは私たちのキリスト者としての生活の中心であり、修道者としてのアイデンティティを定義するものです。そして、この交わりこそが使命の意味となります。私たちが宣べ伝えるべきものは、神が「すべてにおいてすべて」(1コリント15・28)となることなのです。
デジタル文化の中で「つながる」という言葉は、象徴的な意味を持ち、交わりの理解を深めるものでもあります。つながることは、真のコミュニケーションの前提となり、人間が深い関係を求める本質的な必要性に応えるものです。そして、「つながる」ことは「出会いの文化」に属する行為であり、それには相手が関係を受け入れることが不可欠です。このつながりは、教会が現代社会と関係を持ち続ける願いを表しています。現代社会はネットワークに繋がっている一方で、孤立し、真に人と交わることができない現実があります。この愛が贈り物として受け入れられた時、人間の人生の究極の意味が明らかになります。「『現代人の喜びと希望、悲しみと苦悩、とりわけ貧しい人々と苦しんでいるすべての人々のそれは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦悩でもある』」(現代世界憲章、1)。
つながることは、互いに存在する喜びを味わう機会を提供し、人生を分かち合う願いを呼び起こします。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見つめ、手で触れたもの、すなわち命の言葉について、私たちはあなたがたに告げ知らせます。… 私たちがあなたがたに告げるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1ヨハネ1・1~3)。
3. 関係の重要性
交わりは、職人の創造性の領域でもあります。創造する人にとって、彼の働きの目的は、彼の前にいる人の顔にあります。それは彼を自分の外に押し出し、愛に基づいた行動へと導きます。創造とは、単に物を生産することではなく、孤立から人を解放する関係を紡ぎ出す行為であり、そのダイナミズムには終わりがありません。
創造するという行為は、単なる必要性に応えるものではなく、市場の論理だけに従うものでもありません。むしろ、それは人間性を表現し、さらにそれを超えたものでもあります。同様に、私たちの存在は洗礼によってキリストと密接に結びついています。そして、そのことが私たちを神の子として、神と人間の神秘に浸らせるのです。創造することは、私たちの「人間性」と「神性」を表します。それは神の子であることのしるしであり、私たちは御子の姿に従い、彼のように人間性を生きるよう招かれています。そのため、職人であることは召命であり、神の創造の業に参与することでもあります。神は聖書の最初のページから職人として描かれています。彼は陶工のように人間を形作り(創世記2・7)、建築家のように女を造り(創世記2・22)、詩編139では、人間を「織り上げる」名人としてイメージされています。その繊細で謙虚な働きによって、驚くべき創造物が生み出されるのです。
私たちは私たちの使徒職は、決して個人だけの業ではないということを忘れてはなりません。。宣教の実りは、師イエスとの交わり、そして兄弟との交わりから生まれます。そのため、創造する行為は「変容」への道の一つとなるのです。もし私たちの使徒職が真に関係に根ざしているなら、私たちの働きの成果に触れる人々は、私たち自身だけでなく、私たちを生んだ御父を見ることになるでしょう。そして、その関係から生まれる交わりこそが、私たちの歴史に意味を与え、実りをもたらすのです。
この時代の転換期において、「示す」ことが「証明する」ことよりも重要です。神の近さを示すためには、パウロ的修道者として福音を証しするだけでなく、日常生活を語る必要があります。それは、同じことを皆で行うことではなく、異なる者たちが、互いに違いを認め合いながら、三位一体のように交わりのうちに生きることです。
共に創造する共同体は、実に魅力的です。そこに交わりの美しさを目の当たりにした人は、その美に惹かれ、より有機的な人生を望むようになります。この経験は、まさに新しい生き方の提案となるのです。私たちのすべての行動、すべての使徒職は、キリストの体を表すものであるならば、それ自体がコミュニケーションとなります。それは愛を具体化し、受肉した愛を示します。私たちが本を執筆するとき、雑誌を編集するとき、写真を投稿するとき、ウェブページを作るとき、YouTubeのビデオを制作するとき、コミュニケーションコースや青年との召命の集いを企画するとき、聖書アニメーションの活動を行うとき、ラジオで語るとき、書店で一日を過ごすとき、あるいは単に家を心地よく整えるときや、食事を準備し、病気の友人や兄弟を訪問するとき、それらすべての行動が福音を証しし、私たちを深く変容させます。
共同体は、単なる場所ではなく、関係が役割よりも重要である家です。そこに私たちを結びつけるのは、単なる利益ではなく、同じ御父の存在です。私たちパウロ家族にとって、私たちを「生み出し」、神の命を受け入れることで「家」を築き、愛を具体的に示し、聖パウロのように使徒となる生き方を示したのは、アルベリオーネその人です。
4. パウロ的修道者:福音宣教の職人
パウロ的修道者の使命の技術は、聖パウロにおいてその基盤を持ち、アルベリオーネにおいて新しい時代に適応された職人技です。それは、その後、世界各地で福音のためにすべてを捧げた多くのパウロ的修道者と修道女によって具体化されました。彼らは、聖パウロと創立者に触発され、使徒職への情熱と信仰に満ちた者たちでした。
4.1 最初の職人たち
私たちの歴史という「本」を読むと、アルベリオーネ神父の言葉を信じて勇気を持って出発した多くの名前、多くの顔に出会います。当時の手段で福音宣教を行った真の開拓者たちの世代であり、しばしば生計を立て、使命を開始するために何かを考え出さなければならなかった職人たちでした。私たちが語っているのは、若者たちの世代についてです。彼らは直面する社会的・教会的現実をしばしば認識していませんでしたが、言語の問題、手段の貧困、彼らを理解しない地域教会など、多くの課題に直面しなければなりませんでした。また、任務に見合った準備が常にできていたわけではありませんでした。そのため、アルベリオーネ神父に宛てて多くの手紙が書かれ、多くの電報が送られました!プリモ・マエストロから具体的な指示を与え、使命において彼らを励まし、動機づけるために送られた多くの返信メッセージ!信じられないような証言で構成されるパウロ会の生活の「日記」のようなものを作ることができるでしょう。
創立者は自ら関係を築き、近づき、誰も一人にせず、使命にとって真に決定的な「出会いの文化」を実現しました。彼は心から心へと伝え、「私たちの司祭たちの一人一人が、自分がいる国、行った国、または使徒職の強力な手段である出版物によってイエスの教え、聖性、恩寵をもたらすために行く国を愛するように」と述べています。彼の文章の書き方は、今日ソーシャルメディアで一般的に使用されているコミュニケーションスタイルを先取りしていました:短く、わずかな言葉ですが、印象的な文章でした。
アルベリオーネ神父がパウロ家族に会うために行った旅行自体が、交わりを生み出し、関係を築く職人技の新しい方法を常に生み出していました。彼の訪問は熱意を再び循環させ、各人が困難の中で支えられていると感じ、使徒と使徒たちの家族であるという意識が高まりました。
そして、1931年にイタリア以外で最初の3つの設立が行われました:ベネデット・トロッソ神父とサヴェリオ・ボアーノ神父によるブラジル、ピエトロ・ボッラーノ神父(後にスタニスラオ・クロヴェッラ神父とマリオ・ガンドルフィ神父が加わる)によるアメリカ合衆国、ブラジルから来たベネデット・トロッソ神父(後にエドアルド・テレシオ・コスタ神父とリナルド・アンジェロ・コッツァーニ神父が加わる)によるアルゼンチンです。
ここですべての設立とその宣教師たちについて要約することはできません。なぜなら本当に多くいるからです。インド、フィリピン、日本での私たちの活動について、またカナダ、メキシコ、コロンビア、ベネズエラでの活動についても語らなければなりません。ミケーレ・アンブロージオ神父、グイド・パガニーニ神父、アルフォンソ・フェッレーロ神父(インド)、マッテオ・ベルナルド・ボルゴーニョ神父とガエターノ・マルコ・グロッシ神父(フィリピン)、パオロ・マルチェッリーノ神父とロレンツォ・ベルテーロ神父(日本)、アンジェロ・ペッティナーティ神父とアンジェリコ・アブラーテ修道士(カナダ)、フランチェスコ・ミケーレ・シリト神父とピエロ・デガーニ修道士(コロンビア)、ウーゴ・ゼッキン神父(メキシコ)、フランチェスコ・シリト神父とジュゼッペ・スカルナート修道士(ベネズエラ)、ジャコモ・コッラ神父、ラファエレ・トンニ神父、ジュリアーノ・ゾッピ神父(コンゴ)を思い出さなければなりません。初期の同胞たちはなんと進取の気性に富んでいたことでしょう。
これは単なる名前のリストではなく、使命に一生を捧げた兄弟たちの紹介です。彼らに加えて、さらに多くの人々を加えなければなりません:ドメニコ・ヴァレンテ神父(イギリス)、フランチェスコ・サヴェリオ・ボッラーノ神父(オーストラリア)、ジョヴァンニ・バッティスタ・マブリット神父(ドイツ)、レナート・シモーニ神父(アイルランド)、パオロ・マルチェッリーノ神父(韓国)、ジュゼッペ・コスタ神父とマッテオ・トッファーニ修道士(チリ)、サヴェリオ・ボアーノ神父(ポルトガル)、パオリーノ・ジッリ神父(フランス)、チェーザレ・ロバルド神父(ポーランド)。
彼らの名前、彼らの人生は、三位一体への賛美の詩篇のようであり、主が私たちの歴史において、特にこれらの若いパウロ会員たちの歴史において成し遂げられた偉大なことへの喜びの歌です。彼らは「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)のであり、創造的な方法で福音宣教の証人となりました。これらの若者たちの中には、90年前にスペインで活動したデシデリオ・コスタ神父とアントニオ・ブロッサ神父も含まれています。
彼らは勇気ある職人でしたが、時には互いの関係の困難さ、あるいは性格や物事の見方の違いによって、また健康上の理由や直面する困難な社会状況のために、脆弱でもありました。例えば、アルベリオーネ神父がピオ・ベルティーノ神父とエミリオ・ファッシーノ神父(後にアゴスティーノ・ギオーネ神父とクレメンテ・カナヴェーロ神父に交代)を派遣した中国での私たちの使命がそうでした。彼らは日中戦争(1930年代半ば以降)のために計画を変更せざるを得ず、南京を離れてフィリピンに避難し、1938年に戻った後も、1952年には政府の命令により再び – 今度は永久に – 離れなければなりませんでした。
1951年4月26日、スペチャーレ神父は日記にこう記しています:「プリモ・マエストロの顔に大きな悲しみと痛みを見る。疑いなく、多くの労働と大きな希望を持って中国で働いていた息子たちと兄弟たちが、すべてを置いて去らなければならないことを考える重荷を負っている。」1947年には、ヴィットリオ・ボッレッリ神父が31歳という若さで中国で亡くなりました。南京の墓地に埋葬され、未来への種として残されることになります。最後に、同じことがキューバとポーランドでも起こりましたが、これら2つの国では、より最近になって、摂理が私たちの新しい存在のための道を開いてくれました。
これらの兄弟たちの職人技は、編集 – 書籍、雑誌、様々な補助教材 – だけでなく、印刷所、ラジオ、レコード出版、書店、きめ細かな普及活動…聖書の数え切れない出版物、そしてそれに伴う聖書週間や福音の日々、さらにはサン・パオロ映画にまで及びました。地域教会との多くの協力、私たちが様々な文脈に入り込んでいった多くの方法があります。
この創造性は、30年間バチカンのコミュニティで生活し、バチカン市国のための多重電話通信システムを発明したエンツォ・マンフレディ神父の才能にも表れています。インドで120冊以上の本を出版したマウロ・フェッレーロ神父の出版の実りもその証です。創造性の成果は、チリで摂理が私たちに与えてくれたものの活用にも見られ、同胞たちは、2005年10月23日にベネディクト16世によって列聖されたイエズス会のアルベルト・ウルタド神父の助けを得て、書店と出版社を購入することができました。日本とブラジルでのラジオ実現のために何人かの同胞が行ったことすべてを考えないわけにはいきません。そして他にも多くの例を挙げることができるでしょう。
アルベリオーネ神父の言葉は、このすべての活動性を要約しています:「地理の研究には非常に高い目的があります:人々を知ること:習慣、宗教、法律、文化の手段、人口統計の状態、傾向…あらゆる被造物に福音を宣べ伝えるために…司祭[そして師なる神の弟子としての修道士]は、すべての学者のように地理を知らなければなりません…そしてすべての発明と手段と善を、この最も高い彼の召命に役立つ限りにおいて求めるでしょう」。
4.2 現代世界における職人
私たちの視線は過去だけに留めるわけにはいきません。使命への愛は、常に新しい使徒職の衝動を呼び起こし、私たちを前進させます。長い年月を経て、私たちの存在はナイジェリア、ガーナ、アンゴラ、パラグアイ、ペルー、ボリビア、エクアドル、パナマ、マカオ、ベトナム、ウクライナなどに広がってきました。これらの新しいフロンティアは、何人もの同志の献身と、各地の修道会の絶え間ない努力によって開かれたものです。今日の使徒職は、新しい形をとっています。例えば、聖パウロ修道会のコミュニケーション研究センターや文化センター、さらには様々なフェスティバルがその一例です。また、デジタルネットワークやソーシャルメディアへの取り組みも重要な役割を果たしています。私たちの中には、ドキュメンタリーや映画を制作する者、ラジオやテレビ番組を作る者、プロの写真家や画家として働く者もいます。さらに、聖書アニメーションや司牧活動にも力を入れています。
これらの使徒職は、個人の創造性だけでなく、共同体としての協力があってこそ可能です。現代のコミュニケーションは複雑であり、異なる言語や環境を統合する必要があるからです。これについて、アルベリオーネはオーストラリアの同志たちにこう語っています。「助け合いながら、心を一つにして前進してください。この使命のために祈りを合わせ、全力を尽くしてください」。これは、あらゆる現実に適用される言葉です。
私たちは、聖パウロ修道会の歴史の流れの一部です。私たちの使命は、出会い、道を共に歩み、多くの人々と共に生きることで続いていきます。それは一人ひとりの使徒が関わり合う「有機的な体」としての使命なのです。
5. 福音のスタイルによる職人
第三福音書には、「人間性の専門家」とも言える主人公となる譬え話があります:それは善きサマリア人の譬え(ルカ10・25~37)です。律法の専門家が、永遠の命を受け継ぐために隣人を愛することが必要だと師が強調した後で、自分の隣人とは誰かとイエスに尋ねます。そこで登場するのが、司祭やレビ人とは異なり、半死半生で全てを奪われた人に対して一連の近接行為を行うサマリア人です:近づき、傷を包帯で巻き、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行き、宿屋の主人にお金を前払いします。「彼の世話をした」のです!「隣人」とは傷ついた人だけでなく、近づいていくサマリア人でもあるのです。まさに彼の心が不運な人の心と共鳴し、神があらゆる被造物に対して抱く心情を知っていることを示しています。彼の心は開かれ、旅を中断して、その人の世話をするのです。
全ては一つの眼差しから始まります:サマリア人は「見て」、そこから彼の憐れみの最初の一歩が始まるのです。援助の機会を見ます。自分にはできないところで、他の人々がこの貧しい人の世話をすることができる可能性を見ます。サマリア人は広い視野を持ち、連帯のネットワークを構築できる開かれた考え方を持っています。それを具体的かつ人々を巻き込む形で実行します。この場面はエルサレムからエリコに下る道で展開されます:中心から周辺へと。そしてサマリア人は、自己中心から脱却できる人として、まさにこの道のりを進み、新しい状況に「気を取られ」ます。
サマリア人の行うすべての行為は、神の子の行為を描写しているかのようです。彼は人類に近づき、包帯を巻き、自分の上に載せ…半死半生の男女の世話をします。彼は多くの善と癒しの機会を見出し、十二使徒を最初の巻き込まれる者として連帯のネットワークを作り出します。これが譬え話の結論の意味です:「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10・37)。これらの言葉は律法の専門家だけでなく、この福音書のページを読む私たちにも向けられています。私たちにも「そのようにしなさい」と言っているのです。「する」とは生きることの同義語、「そのように生きる」こと、広い視野を持ち、援助のネットワークを構築できる考え方を持って生きること、つまり…交わりの職人技を持って生きることです。
この譬え話の中に、私たちの使徒職の深い意味を読み取ります。善きサマリア人のように、イエスのように、今日の人類からの呼びかけに応じ、人類への同情(「共に苦しむ」)を感じ、私の兄弟姉妹の運命が私の運命にも関わっていることを理解し、連帯の交わりが必要であることを理解する必要があります。今日の道はデジタルの道でもあります。なぜなら、そこに人間性の大部分を見出すからです。そこでは人々は尊厳を奪われ、アルゴリズムによって売り渡されていることがしばしばあります。
「行って、あなたも同じようにしなさい!」イエスはこの言葉を、ファリサイ人シモンの家での罪深い女との出会い(ルカ7・36~50)の後にも繰り返しているようです。場面は出会いを中心に展開します。イエスがシモンの家で食事をしているとき、この女性が予告なしに香油の入った壺を手に入ってきて、泣きながらイエスの足を涙で濡らし始め、髪の毛で拭い、口づけし、香油を注ぎます。ファリサイ人は、イエスが女性のこれらすべての行為を受け入れる様子に衝撃を受けますが、イエスは彼女の行為を別の視点から読み取るよう助けます。
女性に対する彼の眼差しは愛に満ちています:多くの罪のための涙であり、悔い改めに満ちていることを知っています。彼女の行うことを、イエスはシモンによって否定された愛の表現として受け取ります:「あなたは私に足を洗う水をくれなかった……あなたは私に口づけをしてくれなかった…あなたは私の頭に油を注いでくれなかった…」(7・45~46)。なんと多くの失われた機会でしょう。
この女性は愛の創造性を表現し、愛である方との出会いから生まれた交わりの職人となります。彼女の行う行為 – 濡らし、拭い、口づけし、注ぎ、香油を注ぐ – は、彼女の人生における救いの通過を表現する方法です。そしてイエスはそこに、サマリア人のように、彼女の前に立っています。女性がイエスに対して行うことは、サマリア人が行うすべてのことを想起させます。それらの行為は同じ意味を持っています。両者は、それぞれの歴史、人間的資質、文化に応じて創造的です。
サマリア人と罪深い女性は、愛を伝える彼らの技、交わりを目的とする多様な行為を生きることについて私たちに語りかけます。これら二つの福音書の一節は、私たちの使徒職の意味を再び表現しています。伝えるという行為において、私たちは、サマリア人のように、対話者の世話をすることを決意します。それは他者への開かれた行為であり、同時に愛と慈しみの師であるイエスに向けられています。交わりの職人としてのパウロ会員として人類の体に油を注ぐことは、イエスの体に油を注ぐことです。イエスの体に香油を注ぐことは、人類の体に復活の香りを漂わせることなのです。
6. 希望の職人としての聖年
傷ついた人間性は、良きサマリア人のたとえ話(ルカ10・25~37)に登場する半死状態の人のように、希望を求めています。教皇フランシスコは、2024年12月24日から2026年1月6日までの聖年を「希望」に捧げています。このテーマについて教皇は次のように述べています。「すべての人は心の中に希望を抱いています。それは、善を望み、未来に期待するものです。しかし、未来が予測不可能であるがゆえに、信頼から恐れへ、平安から不安へと心が揺れることもあります」。「すべての人は希望を抱いている」という現実は、私たちに深い課題を投げかけます。私たちは現代の旅人として、誰一人取り残すことなく人々に寄り添うよう招かれています。主がすべての人を待っておられるということを、まだ気づいていない人々にも、私たちは近づいていくべきです。聖年は、希望を共有するための特別な時です。教皇は次のように語ります。「希望に惹きつけられ、私たちを通してその希望が他者にも広がるようにしましょう。私たちの人生を通して彼らに語りかけるのです。『主を待ち望め、心を強くし、主を待ち望め』(詩編27・14)」。
7. 明日を見つめて
私たちが生きるこの時代には、交わりの職人が必要です。私たちもまた、そのために自分たちの貢献をすることができます。初代教会はその一例です。使徒言行録は、初代教会が聖霊に導かれ、多様な言語で語り、エルサレムを超えて新しい地平へと広がったことを伝えています。聖霊の働きは、初代のパウロ的修道者たちや、その後の世代の兄弟たちの中にも見られました。彼らは、寛大さと犠牲の精神をもって、新しい共同体と使徒職を築き上げていきました。聖霊の働きがあるところには、創造性と生命が生まれ、愛が広がるのです。「皆が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し始めた」(使徒2,4)。聖霊は今も、私たちを復活の必要な場所へと導いています。
この時代において、私たちは自問しなければなりません。果たして私たちは、主の霊が自由に働かれることを許しているでしょうか? 抵抗や繰り返される躊躇があるとき、創造性は失われ、使徒職は停滞し、キリストに従う者としての交わりの証しが失われます。「私はどのように使命を生きているのか? 疲れや繰り返しの中にとどまってはいないだろうか? それとも福音のために新しい道を開くことを願っているだろうか? 使徒職の計画には、健全な勇気と大胆さがあるだろうか? 使徒としての喜びをどうやって養っているのだろうか? 私は、創造的で寛大な聖パウロ修道会の『出版者』としての自覚を持っているだろうか? 私たちの共同体は、兄弟たちとの交わり、神の民との対話、そして師イエスとの一致を第一にし、共に歩む場として生きているだろうか? 召命文化を育てるために、共同体としてどう貢献しているだろうか? 勉学と研究に励み、使徒職の刷新に努めているだろうか? 祈りのうちに霊的な創造力を養っているだろうか?」これらの問いは、私たちのパウロ的修道者としての生活の質を見直し、前進するための助けとなるでしょう。
愛する兄弟たち、復活された主とその福音を告げることは、今もなお必要不可欠です。人類は、主との出会いを待ち望んでいます。この絶え間ない求めと、時に声に出されない叫びに応える中で、私たち一人ひとりは召命の意味を再発見し、傷ついた人類に寄り添う使命を果たします。今日も、そして過去と同じように、パウロ的修道者としての職人技、つまりあらゆるレベルで交わりを生み出す創造性が求められています。聖霊は、私たち一人ひとりに新たな勇気を与え、特に新しい世代の兄弟たちに、開拓者精神を吹き込んでいます。聖霊は、私たちに内的な自由と柔軟性を求めています。私たちは、自分の土地や文化、そして自分の固定観念を超えて、新しい存在の場へと赴く準備が必要です。現代の矛盾に満ちた時代において、計算高くなく、快適さに囚われることなく、すべての使徒職の場において寛大に福音を証しする者となるのです。
私たちの聖書使徒職は、最初の一世紀を迎えます(1924-2024)。今もなお、神の言葉が人々の生活と心に届くことが必要です。それは、単に印刷された言葉としてではなく、常に創造的な形で贈られるべきものです。各地区は、聖書使徒職を活性化させることが求められます。また、SOBICANは、国際的な性質を持つ組織として、翻訳の仕事だけでなく、教会や社会の様々な現実における聖書アニメーションと養成の使命を強化する必要があります。
召命司牧も欠かせません。すべての使徒職には、使徒が必要です。ある地区では若者がまだ主の呼びかけに応えていますが、別の地区では、無関心や閉ざされた現実が広がっています。しかし、先日開催された「聖パウロ修道会召命司牧セミナー」(アリッチャ、2024年10月20-25日)でも強調されたように、すべての共同体が「召命文化」を育て、真の喜びを証しする場となることができます。
聖年は、希望の巡礼者となる機会を私たちに与えてくれます。すべての人がローマに来ることができるわけではありません。そのため、それぞれの教会現実における聖年の提案を最大限に活用することをお勧めします。この聖なる時を活かしましょう。それは主と、そして私たち同士の和解の時であり、自己中心性から解放される時でもあります。私たちは、主との交わりから生まれる、実り多い使徒職を通して、交わりの職人としての喜びを再発見しましょう。使徒パウロが願い、そして第11回総会で強調されたような思考の変革が、聖霊によって私たちのうちに起こるよう願い求めましょう。
教皇フランシスコが強調するように: 「今こそ、各々の賜物を活かすことを知る、開かれた共同体の職人となる時です。今こそ、重要性や利益を求めるのではなく、人々の歩む道に寄り添い、社会の周縁にいる人々に身を屈める、自由で無私の宣教共同体となる時です。今こそ、失望した若者たちの目を見つめ、移民を受け入れ、希望を失った人々に希望を与える共同体になる時です。今こそ、異なる意見を持つ人々と恐れることなく対話する共同体となる時です。今こそ、良きサマリア人のように、人生に傷ついた人々に近づき、その傷を思いやりを持って癒す共同体となる時です」。そうです、この時は三位一体から与えられたものです。それは、ルカ福音書に登場する女性のように、私たちが使徒職を貴重な香油のようなものとし、地の果てにまでその香りが届くようにするための時です。この香りは、神の師である主の足元に身を屈める、愛に満ちた行いから湧き出てくるのです。
ローマ、2024年12月8日 無原罪の聖母の祭日に
総長 ドメニコ・ソリマン神父