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これってどんな種?

ありのままという種 待降節第3主日(ルカ3・10〜18)

 ディズニー映画の『アナと雪の女王』の中で「レット・イット・ゴー」という曲が流れてきます。私たちの中にも「ありのままで」という歌詞が耳に残った方もおられることでしょう。しかし、この【ありのままで】という言葉を実践しようとすると意外と難しいことに気が付きます。その中に、【エゴ】への声が囁くからです。信仰を持って生活している私たちは、【ありのままで】生きる大切さと【エゴ】からの声をしっかりと識別しなければいけないような気がいたします。

 きょうのみことばは、群衆が洗礼を受けるために洗礼者ヨハネの所に集まって来る場面です。彼らは、自分の今の生活の中に疑問を持っていたのでしょう。ユダヤ人たちは、「メシアが来て自分たちを裁くのではないか、その裁きに相応しい自分であるためには、どのような生活をたらいいのだろうか」と思ったのではないでしょうか。

 そのような群衆に対して洗礼者ヨハネは、「斧はすでに木の根元に置かれている。だから、善い実を結ばない木はみな切り落とされ、火に投げ入れられる」(ルカ3・9)と群衆に言います。群衆は「火に投げ込まれて永遠の死」に入ることを恐れ、【善い実を結ぶ】ためには、「どうすればよいのでしょうか」と洗礼者ヨハネに尋ねたのです。彼らは、いつ来られるか分からない【メシア】に対して心の準備をしなければという気持ちでいっぱいだったのです。

 洗礼者ヨハネは、群衆に対して「下着を2枚持っている者は、持っていない者に分け与えなさい。食べ物を持っている者もまた、同じようにしなさい」と言われます。この下着というのは、私たちが言っている「下着」という意味ではなく、普段の衣服のことのようです。ですから、「下着を2枚持っている者」とか「食べ物を持っている者」というのは、「自分の分を余分に確保するのではなく、困っている人に分けてください」という意味ではないでしょうか。

 ついつい私たちは、「まず、自分のものを」となりがちです。洗礼者ヨハネは、「そうではなく、周りの困っている人に対して、持っていない人に対して寛大に分け与えましょう。」と言っているのです。これは、私たちの物質的なものだけではなく、富や能力、時間といったものと考えていいのかもしれません。例えば、困っている人、悲しんでいる人、まは、忙しくしている人に声をかけたり、手伝ったりする【善行】と言ってもいいでしょう。

 このようなことを聞いた徴税人は、「先生、わたしたちはどうすればよいのでしょう。」と尋ねます。彼らは、ユダヤ人たちから税金を徴収し、ローマに税金を収める人たちです。ですから、ユダヤ人たちからは嫌われ蔑まれていまし、そのような仕事をしている自分たちも自己嫌悪に陥っていたでしょうし、裁きに対して助かるのだろうかと切羽詰まっていたことでしょう。

 洗礼者ヨハネは、「規定以上に取り立ててはいけない」と言います。私たちは、「徴税人」と聞くとき「ザアカイの回心」のことを思い浮かべるのではないでしょうか。彼はイエス様と出会うことによって「主よ、わたしは財産の半分を、貧しい人々に施します。誰かからだまし取っていたら、それを4倍にして払い戻します」(ルカ19・8)と言っています。徴税人たちは、生活するために人々から嫌われても勤めを果たしていましたので、「どうせ嫌われるのだったら、もっと徴収してもいいだろう」と思っていたのかもしれません。洗礼者ヨハネは、そのような多く取り立てている彼らに対して「規定以上に取り立ててはいけない」と言ったのです。

 今度は、兵士たちも洗礼者ヨハネに「わたしたちも、どうすればよいのでしょうか」と尋ねます。彼らは、いつも死と隣り合わせでした。それなのに「こんなに安い給料でやっていられない」と常日頃思っていて、そのようなストレスが「脅し取ったり、ゆすったり」していたのでしょう。洗礼者ヨハネは、そのような彼らに対して「自分の給与で満足しなさい」と言っています。

 洗礼者ヨハネは、「どうすればよいのでしょうか」という群衆の問いに対して「特別なことではなく、日常生活の中で当たり前のことをしなさい。自分に与えられたものを【ありのまま】、素直に使ってください」と言っているのではないでしょうか。私たちは、周りの目を気にして見栄を張ったり、自分の能力以上のものを表現したりする傾きがあり、知らないうちにそれがストレスになってしまいます。洗礼者ヨハネは、「そうではなく、おん父から与えられた賜物で【あなた】ができることをしてください」と言っているのではないでしょうか。

 群衆は、洗礼者ヨハネが「メシア」ではないかと思い始めます。しかし、ヨハネは、自分ではなく「わたしよりも力ある方が来られる」と言います。洗礼者ヨハネの謙遜さもまた、彼に与えられた使命を【ありのまま】行っているのです。私たちは、高ぶることなく、自分に与えられたおん父からの賜物を【ありのまま】行うことによって、イエス様を迎える準備ができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. ありのままという種 待降節第3主日(ルカ3・10〜18)

  2. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  3. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

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