今日のみことばには、「わたしたちはどうすればよいのですか」という質問がとても目につきます。直訳すると「わたしたちは何をどうすればよいのでしょうか」というふうになります。非常に素朴な質問です。
最初の質問者は「群衆」。ルカ福音書を読むと、「群衆」(ギリシア語でオクロス)と「民衆」(ギリシア語でラオス)の用語は違います。イエスに対して親しみや好意を持っているのは「民衆」で、「群衆」はそれほどでもありません。そんな群衆が「どうすればよいのですか」とイエスに歩み寄り、尋ねます。
次に「徴税人」が「先生、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねます。彼らはローマ皇帝の管轄下にあり、ユダヤ人とは違って、異邦の世界で働く者たちでした。ユダヤ人にとってはちょっと煙たい存在です。しかも徴税人は自分の私腹を肥やすため、規定よりもたくさんの税を平気で徴収し、幾分かを自分の懐に入れていました。そのため、多くの人々から嫌われ、罪びと扱いされるような存在でした。そんな彼らがイエスの思いを受け入れるようになっていきます。
次に「兵士」が「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねます。その当時、兵士たちが公の立場を利用して、庶民に嫌がらせをするような行為が起こっていました。そこで洗礼者ヨハネははっきりと「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな」と言います。しかも、彼らの多くは異邦人でした。そんな彼らでさえ「どうすればよいのですか」と丁寧に尋ねます。
そんな中、「民衆」(ラオス)はメシアを待ち望み、しかも、洗礼者ヨハネこそが真のメシアではないかと考えていきます。でも洗礼者ヨハネは自分ではないことを明言します。「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と…。
いろいろなやりとりの中に、洗礼者ヨハネの役割、救い主を待つ人たちの心境がよく見えてきます。