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みことばの響き

荒れ野の光景 待降節第2主日(ルカ3・1~6)

 「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(3・2)とあります。ガリラヤのような穏やかな気候、自然に恵まれた場所ではなく、「荒れ野」という厳しい状況から始まっているところが興味深いことです。

 「荒れ野」はギリシア語で「エレモス」と表現され、しかも単数形です。そこには「砂漠」「孤独」といった意味も込められています。旧約聖書を調べて、「荒れ野」の情景が登場するのは、①イスラエルの民がエジプト脱出後、試みを受ける場所(出15・22~27)、②神の民形成の基盤ともなる契約が締結されていく場所(出19~24章)、③神の憐れみを体験した場所(エゼ16・4~14、20・10~20)、④バビロン捕囚からの帰還が始まる場所(イザ40・3)、⑤バビロン捕囚からの解放において神の業を体験した場所(イザ43・19~20)など、数多くの箇所で「荒れ野」での出来事が登場します。このような情景から、旧約聖書から浮かんでくる「荒れ野」には、厳しい光景や救いと関連した内容が数多く関わっています。

 一度、パウロの足跡を訪ねて、トルコを旅したことがあります。トルコ中央に位置するカパドキアから西のエフェソへ向かう時、幾度となく砂漠や草原を車窓から見ながら旅をしました。それが延々と続くことがしばしば。似たような光景に退屈することもありましたが、こういう世界でも人が生きていることに、人間のたくましさを感じました。またその5年前にはカイロからシナ半島を下っている時、同様に砂漠の中を延々と旅しました。真夏でとても暑く、日中には摂氏45度を超える時もありました。そうした暑さの中で、羊を放牧しながらたくましく生きている人たちの姿を目にした時、とても感動を覚えました。

 荒涼とした「荒れ野」や「砂漠」。厳しさと素朴さを生きた洗礼者ヨハネの姿は、旧約聖書と新約聖書の架け橋としてとてもマッチします。

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