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これってどんな種?

整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

 私たちは、【整える】と耳にするとき何を思い浮かべるでしょうか。最近は、耳にしなくなりましたが、「サウニスト」という言葉が出て来るほど、「サウナ」に入って【整える】人がいます。【整える】という言葉を『新明解国語辞典』で調べてみますと「すぐに演技(作動)が出来るように、ぐあいの悪い所を調べて直しておく。」「見られて恥ずかしくないように、乱れた所を直す」「足りないところがないように、すっかり用意する」「うまく成立するように、まとめる」とありました。

 このように見ていくと、【整える】というのは、今の状態から何かをするために、見直し、そこに向けて用意するということがわかるのではないでしょうか。洗礼の恵みをいただいている私たちは、何のために、また、どのように【整える】ことをしなければならないのでしょう。ちょっと、時間を持って振り返ってみてもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、洗礼者ヨハネが宣教するためにおん父から声が下った場面です。この場面は、他の福音書にもありますが、ルカ福音書と他の福音書との大きな違いがあります。それは、ルカ福音書には、当時パレスチナ地方に関わった総督や領主、そして大祭司の名前が連なっているところです。

 みことばは、「皇帝ティベリウスの第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督」と始まっています。まず、この2人は、イエス様がお生まれになった時から、十字架上での死まで関わったローマ人でした。ヘロデは、ピラトと同じようにイエス様の受難と関わりがあります。そして、次に出て来るフィリポ、リサに対しては、あまり資料がないのですが、彼らが治めていた「イトラヤ、トラコン、アビレネ」という地方に注目しますと、イエス様が宣教されたガリラヤの北の方にあります。もしかしたら、彼らは、イエス様が宣教するにあたって何らかの影響を及ぼしていたのかもしれません。そして、最後のアンナスとカイヤファが大祭司は、イエス様が宣教されていたころもそうでしょうが、やはり、イエス様の受難と深く関わりがあり、その後の使徒たちの宣教に対しても関わりがあります。

 ルカ福音書があえて他の福音書には書かれていないような、当時のローマ皇帝や総統、また、領主や大祭司の名前を連ねたのは、イエス様がどのような環境、政治的な宗教的な背景の中でお生まれになられ、宣教し、そして十字架にかけられたかということを伝えたいと思っていたのではないでしょうか。

 そのような時に、「荒れ野で、神の言葉がザカリアの子ヨハネに下った」のでした。洗礼者ヨハネは、前に出てきた人たちのように、権力も地位もなく、贅沢な住まいの中で生活をしていませんでした。むしろ、【荒れ野】で生活し「らくだの毛の衣をまとい、腰には皮の帯を締め、蝗と野蜜を食としていた」(マタイ3・4)とありますように、質素な生活をしていました。また、彼は、宮殿や立派な建物ではなく、【荒れ野】という、人が住むには適した所ではなく、寒さ暑さに苦しみ、食べ物や水を確保することもできず、さらに、野獣から襲われる危険もあり、神に頼らなければ生きていけない所で生活をしていました。

 そのような生活をしていた洗礼者ヨハネのところに、【神の言葉】が下ったのです。洗礼者ヨハネは、神の言葉を頂くと直ぐにヨルダン川周辺の地域一帯を巡り、罪の赦しへ導く悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。彼が宣教した場所は、イエス様が宣教された地域と言ってもいいでしょう。また、ヨルダン川ということで【洗礼】を授けるのにも適していたことでしょう。洗礼者ヨハネの【洗礼】は、「罪の赦しへ導く【悔い改め】でしたから、まず、彼のもとに集った人は、自分が「罪人」であると自覚した人たち、弱い立場の人たち、今の生活では救われないと思っていた人たちだったのではないでしょうか。

 みことばは、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。……』」というように、イザヤ書を引用し洗礼者ヨハネのことを伝えています。洗礼者ヨハネは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」という使命をいただきます。このことは、「罪の赦しへ導く洗礼」を意味しています。冒頭で記しましたが、ここで「主の道を【整え】」と出てきました。私たちは、このみことばをどのように深めていけばいいのでしょうか。私たちは、お生まれになられるイエス様をお迎えすることができるように「心を【整える】」とともに、私たち自身が「主が通られる【道】」となるように【整える】ということも言えるのではないでしょうか。

 パウロは「キリストの日に備えて、あなた方が純粋で、非難されるところのない者となり、……」(フィリピ1・10)と言っています。私たち一人ひとりは、いつも【純粋】な気持ちで、周りから非難されるところのない者となるように、【私】ではなく、おん父の恵みによってイエス様をお迎えするふさわしい心に【整える】ことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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